陽興寺(佐賀県白石町)
お礼参り
この旅で、
偶然に見つけた縫ノ池湧水を訪問し、
鎮座する厳島神社にも参拝できたのは、
江戸時代まで縫ノ池を管轄していた
陽興寺のお陰だというものです。
そのような関係性から
やはりここは縫ノ池の親分、
いや元親分には礼を尽くすのが筋。
何だか、固い話になりますが、
糸を手繰り寄せるようなご縁で繋がるのは、
やはり見えない力の導きでしょう。
そんな力を信じるほど、
旅をして思わぬ展開も
多いというものですね。
陽興寺へ
実は縫ノ池に行く時、
少し迷ってしまい
一度陽興寺の駐車場には
入っていたので、訪問は二回目です(笑)
カーナビで見ると先程行った
縫ノ池湧水(厳島神社)からは、
元はお寺の境内地だった事もあり
ここ陽興寺までは、かなり近い距離で、
あっという間に到着です。
石畳の参道。
「お寺めぐりの友」という
お寺の情報満載のサイトに
書かれた陽興寺の案内を抜粋すると、
「陽興寺は須古龍造寺家
(3代目から鍋島姓となる)の
菩提寺として復興された。」
「天正年間の復興創建以来、
34世を数える。
古い山門は200年ほど前の
建立ではないかという。
本堂は昭和6年に完成したもの。」
このように書かれています。
須古城へ行った事で、
その城主だった方の
菩提寺にまで出会えたのですね。
そして、
駐車スペースの奥に
存在感抜群の石碑があります。
慶長二年銘万部塔。
案内には、
「龍造寺隆信・長信の母、
慶誾(けいぎん)妙意大姉(慶誾尼)が、
慶長二年(1597年)十二月、
大慈大悲千手千眼観世音菩薩
(千手観音)へ大乗妙典(法華経)を
一万部読誦(声を出して読む)させた記念に
建てたものである。」
そして、最も興味深いものが、
次の部分です。
「慶誾尼は夫、龍造寺周家の戦死後、
1556年、鍋島直茂の父、
鍋島清房と再嫁、
隆信と鍋島直茂を義兄弟とし
龍造寺家の安泰を図った」
へ~龍造寺隆信と鍋島勝茂は、
同じ「母」を持つ義兄弟だったとは・・・
この慶誾尼の存在があったからこそ
佐賀藩は幕末まで残れる雄藩に
なれたのかも知れません。
「豊臣秀吉による朝鮮出兵の時期に当り、
龍造寺一門も鍋島直茂に統率され
朝鮮に渡海していた。
慶誾尼がどのような願いを
託したかは不明であるが、
並々ならぬ思いが伝わるようである」
このように書かれています。
きっと慶誾尼は、鍋島直茂こそ
将来、佐賀藩の盟主になると
信じていたからこそその身を案じて、
一万部読誦をしたのでしょう。
それにしても僕たちは凄いものを
見つけたものです。
やはり見えない力(笑)
ここから石段。
右側の仏様(お地蔵様)
妻が「イケメン」と言ったので、
アップでも撮影。
山門へ。
秋のうろこ雲との
コントラストが、いい感じです。
かなりバテてしまいます(汗)
常夜燈(燈籠)
文化十四年(1817年)の寄進。
この燈籠の寄進時期と、
山門が建立されたとされる時期が、
同じ約200年前。
同時に造られたのかも知れませんね。
山門の扁額。
正面が本堂。
本堂を斜め前から撮影。
手前は鐘楼、奥は手水舎です。
本堂から振り返ると山門の向こうに
白石町の穀倉地帯が広がっています。
そして、靴を脱ぎ、本堂内へ。
お~優しい~!
ほんの少しの段差なのに、
二段階の手摺が置いてあります。
参拝前に既に感動マックス(笑)
本堂にて参拝。
天井が豪華。
お~ここにも感動が。
膝が悪い人への配慮の低い椅子ですよ。
何だか、
住職さんの人柄がにじみ出ていますね。
そして、本堂端の本棚にも
そんな住職さんの気持ちがこもっています。
子供用の本が沢山置いてあります。
その中で、見つけたのが、こちらの一冊。
何故こんなに目立つようにあるのか?
「はなちゃんのみそ汁」・・・
まるで「これを見なさい!」
と言わんばかりに置いてあります。
これを見ると、この末広涼子主演の
この映画のプロデューサーだった
村岡さんを思い出します・・・
以前フェイスブックの友人で、
一度お会いした事がある村岡さん、
「ペコロスの母に会いに行く」の映画で
多くの感動をよんだ後、
不慮の事故で脊髄損傷という
大きな怪我を負ったものの
不屈の闘志で復活し、
この映画で、受賞し、
ロサンゼルスでレッドカーペットを
歩かれたその生き様を
改めて手本とせよ!
僕に対するそんな神の、
いや仏様のお告げかも知れません。
最後に・・
ツーショット撮るの忘れていた~(笑)