瑞鳳殿(宮城県仙台市)霊屋(本殿)
失ったからこそ・・
伊達政宗の霊廟として
江戸時代初期に建立された瑞鳳殿。
昭和二十(1945)年七月、
米軍の空襲により焼失し、
その後、
昭和五十四年(1979)に
再建されています。
実際に訪問して知ったのが、
再建するにあたり、
瑞鳳殿(本殿)を見やすいよう、
手前の拝殿や廊下などを省略し、
さらに拝殿本体やその唐門を
小ぶりにしている事です。
正直、オリジナルであれば、
大きな構造物に隠れて、
瑞鳳殿全体を観覧するのは、
難しかった事でしょう。
同じような例を挙げれば、
江戸時代初期に建てられた
広島県の福山城も、
戦争末期の空襲で焼失していますが、
再建された天守には
観光客の展望を考え、
オリジナルには無かった
最上階を一周巡れる
高蘭が付けられています。
失ったからこそ出来ることもある・・・
そんな言葉が浮かんだ瑞鳳殿参拝です。
拝殿
涅槃門から拝殿へ。
入場は門横の通用口?から。
石段の左右には
政宗の家臣たちが奉納した
石燈籠が並んでいます。
石段右側の石燈籠。
石段左側の石燈籠。
拝殿前に到着。
拝殿の案内。
書き出すと以下になります。
「礼拝のために整えられた施設で、
焼失前の拝殿は瑞鳳殿の床面と
同じ高さになっており、
正面扉を開けると、
橋廊下、唐門を通して
瑞鳳殿内に安置された
政宗の尊像(御木像)に
拝礼することができたとされます。
また側面からも回廊が伸びており
御供所とも繋がっていました。
正面扉上には江戸時代の名書家
佐々木文山の筆による扁額がありました。
現在の拝殿は瑞鳳殿がよく見えるよう
簡略化されています。」
瑞鳳殿(本殿)
拝殿をくぐり、
政宗公が眠る瑞鳳殿へ。
瑞鳳殿入口左右の柱と、
透塀が赤と黒の色違いですね!
これにはどんな意味があるのでしょう?
そして、
その手前の大香炉には
伊達家の三つの家紋があしらわれています。
竹に雀紋。
これぞ「ザ・伊達の家紋」ですね!
三引両紋。
九曜紋。
ネット情報によると
政宗さんが細川家にお願いして
貰ったそうです。
斜めからも撮影。
そしれ参拝へ。
絢爛豪華な瑞鳳殿正面。
「伊達政宗公の霊屋 瑞鳳殿」
以下、案内の抜粋です。
「政宗は生前、
ホトトギスの初音を聴くため、
ここ経ヶ峯に登り、
同行の家臣に死後は当地へ
墓所を造るように命じました。
この遺言に従い、
寛永13(1636)年5月24日、
江戸で70年の生涯を終えると、
仙台に運ばれ、
ここ経ヶ峯に葬られました。
霊屋瑞鳳殿は
翌年の10月に完成しています。
(中略)
瑞鳳殿は昭和6(1931) 年に
国宝に指定されましたが、
昭和20(1945)年の戦災により焼失。
昭和54(1979)年に再建されました。
本殿の扉は普段は閉ざされており、
政宗の命日(5月24日)、
新年の拝礼式など
特別な場合に御開帳されます。」
参拝。
扉に配置された
竹に雀紋は3D仕様ですね(笑)
次に両脇の供養塔へ。
殉死者供養塔についての案内。
書き出すと以下になります。
「主君が亡くなった時に、
家臣がその後を追って
自ら死ぬことを殉死といい
江戸時代初期までその風習がありました。
藩主伊達政宗の死に際して、家臣 15名と
家臣に仕えた陪臣5名の
計20名が殉死しました。
こうした死者を供養するため、
瑞鳳殿の両際には宝篋印塔という形式の
石塔が建てられました。
殉死者の墓は各家の菩提寺等にあり、
瑞鳳殿両脇に遺骨はなく石塔は
供養のためのものと考えられます。
現在の石塔は昭和54年(1979)の
瑞鳳殿再建の際に作り直されたものです。」
戦国時代には、あまり無かった
「殉死」という習慣は、
江戸時代になって急増し、
徳川綱吉が禁止するまで、
全国で膨大な数の人たちが
殉死していますが、
これも一つの
「忠誠の証」だったようで、
上級武士も大変だったのですね(汗)
瑞鳳殿向かって右側の
宝篋印塔に参拝。
左側の宝篋印塔にも参拝。
瑞鳳殿全体を撮影。
さすが伊達政宗さんのお墓だけあって、
お参りする方が多く、
これでも人が減った状態です(笑)
鬼瓦は竜神様ですね!
やはり「独眼竜政宗」だからかな?
瑞鳳殿前に展示された
先代の竜神様と鬼瓦。
参拝を終え、再度拝殿へ。
涅槃門を通過。
出口はなんと自動ドア!
伊達政宗さん、
伊達な男と言われるだけあって、
お墓でもやること成すこと、
スマートでカッコいいな〜!