会津武家屋敷(会津若松市)前編

 

前世は会津武士?

産声をあげたばかりの新政府が、

会津藩など旧幕府勢力を武力制圧し

前代の秩序を『悪」として、

完全に亡きものとし

新秩序を確立した戊辰戦争。

その歴史の踏み台となった

会津藩の人々に強く心惹かれる妻は、

鶴ヶ城の写真を見ただけで涙し、

まるで前世は会津藩士として

戊辰戦争を戦ったんじゃないかと

思わせるほどの会津愛満載です。

という事で、

昨年(令和5年)に続き、

二年連続で会津若松へ。

もしかすると、

三回目もあるかも知れませんよ(笑)

会津武家屋敷へ

母成峠土津神社を巡った後は、

高速道路を使い会津若松へ。

この日の磐梯山は雲に隠れて

裾だけが見えています。

猪苗代から40分で、

会津武家屋敷に到着。

案内図。

幟の九曜紋は西郷家の家紋。

レトロな現役のポスト。

集荷は毎日一回です。

入口の冠木門&料金所。

僕たちはJAF割引で750円。

背後の山には、

会津藩主松平家御廟とあります。

案内。

概略を書くと、

「会津特有の伝統精神を

後世に伝える責務を

痛感していたところ

家老屋敷の図面が見つかったことで、

具体化される事となり、

家老屋敷として竣工を見、

更にゆかりの建物を移築し他のが、

会津武家屋敷である。」

このようになります。

「あいづっこ宣言」

会津藩校、日新館の「什の掟」を元に

現代風にアレンジされているのかな?

家老屋敷西郷頼母邸

順路通り、まずは家老屋敷を目指します。

左へ。

突き当たりに銅像が見えています。

柔道家「西郷(保科)四郎」の像。

西郷頼母の養子となった人で、

姿三四郎のモデルだと書かれています。

「山嵐」という技を繰り出す四郎。

近くだと迫力倍増だ〜!

表門。

「家老屋敷 西郷頼母邸」

案内を書き出すと

以下になります。

「西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、

代々家老職を務めた

千七百石取りの家柄であった。

江戸時代中期の和様建築の粋集めた、

豪華かつ壮大なこの家老屋数は、

敷地画積二千四百坪

建築面積二八〇坪を誇り、

三十八室もの部屋を擁していた。

四脚門や式台玄関、それに

冠振りぐしに九曜の放を付けた鬼瓦などは、

格式の高い西郷家ゆえに

許された特権であった。」

玄関へ。

式台玄関。

出迎え、ご苦労である!(笑)

奥の片長屋へ。

案内には、

「江戸時代の武家邸宅の回りには、

長屋を設け下級の家臣を住まわせ、

屋敷の警備にあたらせた。

この長屋は、

表門の片側についている所から、

片長屋という。」

このように記されています。

「駕籠部屋」。

「酒槽(さかぶね)」

「酒槽」横から。

自刃の場(再現)

豊富な展示ですが、

ここでのクライマックスは、

西郷頼母の妻以下、

21名が自刃した場の再現です。

館内。

神妙に展示を見てる妻。

その視線の先は・・

「会津戦争への道」

これを読むと、

松平容保公は、

藩主を子供に譲り、

輪王寺宮(日光東照宮)に

謝罪嘆願を依頼するなど

恭順の姿勢だったと書かれています。

しかし、

旧勢力の一掃は武力にのみ

為されるものとする

新政府側の考えは、

揺るぎなかったのでしょう・・・。

「悲劇 西郷頼母一族の自刃」

妻子を自刃で亡くしても

ただ一人、

人生を全うした西郷頼母。

批判する人もいるようですが、

自分の為、ひいては世のために

「生き抜く」ことは死ぬよりも

はるかに高尚な事だと思います。

自刃の場。

案内。

「慶應四年八月二十三日、

西軍の侵攻は疾風の如くであった。

西郷頼母が登城した留守宅では、

妻の千重子を筆頭に一族浪等二十一人が、

全員自決を遂げた。

この様子は弾丸を避け邸内に入った

西軍藩士中島信行が

死にきれず息も絶え絶えの少女から

介錯を求められ、

涙ながらこれに応じた悲劇を

再現したものである。」

西郷千重子の辞世。

「なよ竹の 風にまかする

身ながらも たわまぬ節の

ありとこそきけ」

意味をGoogleに聞くと・・

「弱いなよ竹と同じように

風に吹かれてしまう身だけれど、

強風にも曲げられない、

なよ竹の節のように、

私も節義に殉じてみせる」という

強い意志と覚悟が込められています。

このように回答してくれました。

「節義に殉じてみせる」・・・

もう涙しかありません・・

自刃の場面と家族らの辞世。

「逆屏風について」

「守り刀は死者が黄泉の国に行く際に、

悪霊を払う武器として

屏風は悪霊が来ないように

壁としての役目を果たすとされています。

何故、屏風を逆さに置くかというと

死者の着物の襟を男女逆さまに着せるように

仏教でいう「さかさごと」という行為から

来ていて、このことから

屏風を逆さまに置くのは、

武士の自刃の作法となりました。」

このような意味が書かれています。

ここでは西郷頼母一家の紹介だけですが、

戊辰戦争で起きた、

一家自刃の例は他にもあり、

会津の苦難を思うと、

なんとも言葉がありません・・・

その他の展示

最後に二つの展示を見学。

西郷頼母像(左)と

その養子となった、

西郷四郎着用の柔道着(複製)

銅像(胸像)の存在感が凄い!

鹿鳴館の華、山川捨松。

11歳で津田梅子らとアメリカ留学し

帰国後、戊辰戦争では敵だった

薩摩の大山巌と結婚し、

外交と女子教育で活躍した人です。

(続く)

 

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