蛭ヶ島公園(伊豆の国市)

 

蛭ケ島と三嶋大社

源頼朝の配流先(居住地)であった

蛭ケ島訪問を計画した時、

たまたま三嶋大社が蛭ケ島から

車で20分ほどの場所だと知り、

西伊豆の旅の起点は三島駅とし、

今年(令和五年)の神札を三嶋大社で

授与いただいた後、

蛭ケ島へと向かうことにしました。

その三嶋大社では、

「源頼朝 北條政子腰掛石」に出会い、

頼朝夫妻が、蛭ケ島から三嶋大社まで、

平家追悼を願い、

百日の日参をした事を知ったのです。

はからずも蛭ケ島と三嶋大社を

百日も往復した頼朝さんたちの

「足跡を辿る」ことになった僕たち、

これって、頼朝さんから

「僕の家に来るんだったら、

その前に三嶋大社で

平家追悼できたお礼言っといて!」

そんな頼朝さんのお言葉が

導いていたのかも知れません(笑)

蛭ケ島or蛭ヶ小島?

「蛭ケ島」というのが

現在は確定なのでしょうが、

50年ほど前僕が覚えた

頼朝さんの配流先は「蛭ヶ小島」。

いったいいつ「小」は

無くなったんだろう?

そんな「モヤモヤ」も抱えながら

蛭ケ島公園に到着すると

いきなり、あったのです!

「蛭ヶ小島」が(笑)

「遺跡 蛭ヶ小島」

いきなりの「小」付きに

びっくりです!

石碑との大きさ比較の為妻登場。

揮毫したのは、

三嶋大社の宮司さんですね!

やはり頼朝さんと三嶋大社、

心願成就から800年経っても

深〜い絆で結ばれています。

そしてこの石碑、

昭和四十八年の建立なので、

僕の記憶した頃、50年前ですよ!

この石碑を証拠に、

昔は「蛭ヶ小島」と

呼ばれていた事にしておきます(笑)

こちらは「蛭ケ島」の案内。

冒頭を少し書き出すと

以下になります。

「このあたりを

伊豆国市四日町字蛭ケ島といい

源頼朝配流の地といわれている」

「狩野川流路変遷の名残か、

近在には

古河、和田島、土手和田などの

地名が既存することから

往時は大小の田島(中洲)が点在し

そのひとつが、

この蛭ケ島であったことが想像される」

な〜るほど!

なんで内陸なのに「島」なんだろう?

そう思っていたので、

これでスッキリしました(笑)

蛭ケ島の夫婦ふたり

ここで一番見たかったのが、

頼朝と政子の銅像です。

蛭ケ島公園の一角に立つ銅像。

案内。

「蛭ケ島の夫婦

治承元年(1177)

源頼朝(31才)

北条政子(21才)

二人はこの地で結ばれる

日本史上にその名を残す二人の

若き日の姿である」

近影。

お顔アップ。

二人の視線の先は・・・

雄大な富士山です!

背後から富士山と共に。

この位置に銅像を建てた人、

素晴らしい感性ですね!

二人目線で富士山を眺望。

この時の頼朝さんの脳内は、

平家追討の強い思いかな?

銅像の傍にある時計塔。

塔柱に描かれた二人の姿が

銅像とそっくりなので、

同じ時に建てられたのでしょう。

この時、2時9分。

これって、

頼朝さんの平家への憎(29)しみと

シンクロしたのかも?(笑)

その他

二人の銅像と富士山を見たら、

達成感で気が抜け、

その後は惰性で散策してしまい、

江戸時代、寛政二年(1790)

頼朝の偉業を伝えるために建てられた、

「蛭島碑記」を見逃すという

失態を演じたのです(汗)

まあ、

いつものことなんですけどね(笑)

「頼朝と政子(梛の葉の縁結び)」

案内を要約すると

「頼朝と政子が結ばれると

面倒な事になると考えた

政子の父、北条時政が、

無理やり、平兼隆に嫁がせたところ

祝言の晩、政子は熱海の伊豆山権現

逃げ込み、その後頼朝も合流し

伊豆山権現の保護により

めでたく夫婦になった。

その後、

江戸時代初期〜中期にかけ

頼朝と政子が伊豆山権現で

結ばれた故事によって、

伊豆山権現の梛(なぎ)の葉を

鏡の裏に入れてお守りにすることが

娘たちの流行となった。」

このようになります。

伊豆の国市 歴史民俗資料館。

江戸時代の旧家を

資料館として活用しています。

最後は蛭ケ島の夫婦と共に

フォーショット。

本日のユーモア

こちらは公園のトイレで見つけた

啓蒙ポスターです。

伊豆の国市役所 都市計画課の人、

素晴らしいユーモアで、

僕を笑わせてくれて

本当にありがとう!

 

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