会津若松城(鶴ヶ城)(2)
呼び名
Wikipediaによると
蒲生氏郷が、「若松城」から
「鶴ヶ城」に名前を改めたと
書かれています。
この経緯からなのか、
城内の案内は基本「鶴ヶ城」です。
僕たちは「会津若松城に行く!」
な〜んて盛り上がっていたので、
ここでは、会津若松城を「主」、
鶴ヶ城を「従」として
使っています(笑)
太鼓門
西出丸、北出丸をめぐり、
ようやく本丸方面へ。
北出丸から横手坂を歩くと、
正面に天守北面が見えてきます。
ライトアップの案内。
「鶴ヶ城さくらまつり」開催中!
しかし、
今年は記録的な超早咲きだったので、
桜はほぼ散ってしまっています(汗)
太鼓門へ。
左側の切り込み接ぎの石垣、
江戸城の縮小版って感じです。
大規模な枡形が見えてきました。
鏡石と妻の大きさ比較。
一辺2mくらいでしょうか、
他にもそんな石が
ゴロゴロしています。
この辺りの石垣は少し古いのかな?
(詳細は不明)
太鼓門。
案内を書き出すと
以下になります。
「北出丸から本丸に通じる
大手門(追手門)のことで、
ここには多聞櫓と呼ばれる櫓が建てられ、
直径五尺八寸(約1.8m)の
大太鼓を備え、
藩主の登城や非常事態、
その他の合図に使用したことから
太鼓門と呼ばれた。」
内容から推測すると
北出丸の大手門ができる前までは、
ここが正式な大手門としての
位置付けだったのでしょう。
枡形の真っ只中。
歴代城主の家紋。
伊達氏と上杉氏、
どっちの家紋にも
雀が入ってるんですね!
太鼓門を出ると、
天守はすぐそこです。
武者走り
ここから天守三昧と
行きたいところですが、
その前に見所が一つ。
天守北面に相対する
太鼓門石垣の内側に設けられたのが、
「武者走り」とも呼ばれる
V字型の雁木(階段)です。
向かって左側のものは、
特に精巧な造りになっています。
「武者走り」
案内板よりの先に気になるのは
石垣の「すだれ仕上げ」です(笑)
ホント凝った造りですな〜
このお城は!
さて、案内を書き出すと
以下になります。
「この石垣は、
鶴ヶ城の大手門の渡櫓などへ
簡単に「昇り」「降り」が
出来るように造られています。
V字形に造られており
「武者走り」とも呼ばれ
鶴ヶ城の石垣の特色の一つです。
また地表面での占有面積も少なくすみ、
石積みについての
当時の知恵がうかがえます。」
ここで防戦する場合、
一挙に大人数が登る
必要性がないと考えた結果の
V字型かと思われます。
(勝手な推測)
この石垣、天守最上階から眺めると・・・
石段のV字型がよ〜く分かりますね!
そして、左側の階段上には、
何やら赤いものが見えています・・
めっちゃ可愛い赤べこが、
刀を置いて、
お風呂で一杯やってます(笑)
いや〜楽しませてくれますな〜
会津若松市!
天守外観(本丸)
ここからは天守三昧(笑)
北西面から。
西面から。
蒲生氏郷が築いたのは
七層(重)の天守だったからか、
加藤さんが再建した
五層天守だと天守台が、
少し余って見える気がします。
それにしても
氏郷さん時代の野面積みの石垣を
こんな間近で見られるなんて、
テンション上がりまくりですよ!
蒲生氏郷さん、短命だったけど、
豊臣政権では大活躍した人。
いいもの残してくれて
ありがとう!
本丸埋門。
この先が本丸です。
本丸埋門。
案内を書き出すと
以下になります。
「天守閣の北東にあって
本丸奥御殿の北側から
本丸帯廓に通じる枡形の城門である。
城内の他の門や建築物に比較して
低い門構えで埋門の形態を取っていた。
大手口が東であった築城当時は
表門であったが、
寛永16年(1639)完成した
加藤時代の改修後は裏門となっている。
本丸奥御殿の勝手口としても
重要な門である。」
撮影スポット。
お〜いい感じ!
定番で見る写真が撮れたところで、
本丸南端の干飯櫓へ。
干飯櫓。
ここから天守方面を見ると・・・
鉄門(くろがねもん)と
天守のコラボ、
なかなかいいな〜!
縦位置でも撮影。
本丸御殿跡の芝生とともに。
(続く)