赤穂城(兵庫県赤穂市)(2)
日本の近代化に貢献
赤穂といえば、塩の町。
それに、
元禄時代、
主君の仇討ちを果たした
大石内蔵助率いる
四十七士の忠臣蔵でしょう。
ありきたりの知識の中、
赤穂城を訪問して知ったのは、
森家が藩主だった
幕末〜明治初期に起きた
「もう一つの忠臣蔵」のお話です。
明治政府は、この仇討ちを受けて、
江戸時代から
引き続き認められていた「仇討ち」を
禁止することになったのです。
「悲劇」「事件」というものは、
その後の改革、刷新を促すものですが、
赤穂藩は、はからずも
こんな形で日本の近代化に
貢献していたんですね!
二の丸門
そして二之丸へ。
二の丸門(左)と石垣。
「二の丸門跡」
案内を抜粋、要約すると
以下になります。
「赤穂城は、正保2年(1645)
常陸国笠間藩から浅野長直が入封し、
慶安元年(1648)より
13年に亘る歳月を費やし
寛文元年(1661)に完成した。
二の丸虎口の縄張りの一部は、
浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、
承応2年(1653)に
変更したと言われる。
文久2年(1862)には、
この付近で赤穂藩国家老森主税が、
暗殺され、明治4年(1871)の
日本最後の集団仇討ち
「高野の復讐」の発端となった。」
最も有名な仇討ちと
最後の仇討ちが同じ赤穂藩とは、
偶然なのか、
それとも必然的だったのか・・・
「赤穂城跡二之丸門枡形石垣の発掘調査」
案内で気になるところを抜粋すると
「平成14年に発掘調査をしたところ
低石垣の根石や、石垣の下部構造が
良好に残されていることが判明。
特に低石垣の根石については、
石垣が不自然に追加されており、
赤穂城築城時に赤穂を訪れた
軍学者の山鹿素行が
「二之丸門枡形の一部を手直しした」との
記録を裏付けるものとして評価できます。」
このようになります。
復元された二之丸低石垣と堀の近影。
石垣の構造が
誰にでもわかる復元方法も
グッジョブですね!
山鹿素行像
二之丸でのキーワードは、
「山鹿素行」。
僕が、その名前を知ったのは、
長崎県の平戸城を訪問した時でした。
素行さんの銅像への入り口の石。
これはいったい何?
そう思いながら案内を見ると・・
即解決(笑)
案内の最後に、
「ここに置かれている
半畳ほどの二つの大きな石は、
小石を持って叩くと、
「かんかん」という音を立てることから、
誰言うとなく
「かんかん石」と呼ばれている。」
このように書かれています。
素行さんとは無関係のようです(笑)
尾道の鼓岩など、
たま〜に見ますね、
こんなカンカンと音を立てる石。
一体何の原理なんでしょうか?(笑)
「山鹿素行先生銅像」
案内を抜粋すると
以下になります。
「兵学者・儒学者として著名な
山鹿素行(1622〜1685)は、
承応元年(1652)から
万治三年(1660)の間、
赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、
承応二年には赤穂城築城に参画して
二之丸虎口の縄張りを一部変更し、
家中に兵法を指南した。
その後、著書が幕府の忌諱に触れ、
1666年から1675年まで、
赤穂に配流され二の丸内の
家老大石頼母助邸の一隅に蟄居した。
この間に
「四書句読大全」「中朝事実」
「武家事紀」「謫居童問」など、
素行の学問を代表する
大著を完成している。」
やはり転んでもタダでは起きないのが、
歴史に名を残す人の特徴です(笑)
蟄居期間に「いい仕事」した
山鹿素行も同じですね。
ちなみに、ドイツのヒトラーは、
「我が闘争」を獄中で書いています。
そして、この奥に鎮座するのが
山鹿素行さんの銅像(胸像)です。
山鹿素行像。
碑文の一部を現代語で
抜粋・要約すると
以下になります。
「徳川家光は、
山鹿素行を登用しようとしたが、
薨去により果たせず。
近世、吉田松陰・乃木大将皆
先生の教えを模範とする。
その功績を顕彰し、
先生の銅像を建てることにする。」
実際、中朝事実は、
吉田松陰など幕末維新の志士の
心の拠り所であり、
乃木大将の愛読書でも
あったようですので、
素行さんの思想は、
亡くなって200年後も
新鮮だったということでしょう。
胸像のアップ。
穏やかな中にも
隙がないような・・・。
本丸門
まずは案内図を再確認。
本丸と二之丸が輪郭式、
その二つと三之丸が梯郭式という
ミックスタイプの赤穂城、
やはり大手側の守りを重視していたのかな?
本丸門。
本丸門左側の風景。
左端には櫓台もあります。
右側の風景。
いざ、本丸門へ。
リニューアル工事真っ最中ですね。
高麗門の「羽」部分と
太陽光が重なって、
なんか、
めっちゃいい感じですね(笑)
枡形内から見た高麗門と雁木。
枡形内部。
櫓門から本丸へ。
本丸に到着し、
振り返って櫓門を撮影。
ここからは、本丸内の散策です。
(続く)