2024/06/28
朝倉義景墓所(福井県大野市)
辞世の句
多くの武将が遺した、「辞世の句」。
畳の上での最後ならば、
句を詠む時間もあるでしょうが、
敵に攻められて、
死ぬ間際に全く猶予が無かった人も
何故か、ちゃんと作っています。
「首切るの、ちょ待てよ!
今から辞世の句作るから!」
「了解、いい句作れよ!」
このようなやり取りがあったかも?(笑)
そんな猶予が無い死を迎えた
朝倉義景の辞世の句を
お墓の案内で知りました。
現代風に書くと
「嗚呼、苦しい40年の人生だった・・・
結局は自分も他人も区別なんてなく
この世は全て実態のないものだ」
このようになります。
最初の一文に義景さんが
生きている間ずっと、
常に苦しい立場だった事が
凝縮されています。
足利義昭を上洛させる程の力が
無かったにも関わらず、
義昭の権威にすがるために
頑張って迎え入れていた
自分の力の限界を
心の底では、
分かっていたのかも知れません・・・。
墓所へ
駐車場からスタートし、
途中、御清水に立ち寄り、
少し行くと、妻の雄叫びが!(笑)
「あれ、朝倉義景墓所って書いてある」
妻はここ数年、何かにつけて、
現地指南役をしてくれるので、
かなり助かります。
大野市にはこのような観光案内が
散策路の至る所に建てられて、
初めて訪問する人にも
超優しい町なのです。
墓所の入り口。
石積みでエントランスまで
設られた石仏にご挨拶。
義景公園
墓所周辺は、
「義景公園」として整備され、
僕たちが行った季節ならば、
お弁当持ってお花見も出来る
市民の憩いの場でもあります。
案内図。
大野市は湧水の町、
ここにも
「義景清水(飲料水)」として
紹介されていますね。
満開の桜に囲まれた墓域。
案内を抜粋すると
以下になります。
「朝倉義景は、一乗谷に本拠を置く
戦国大名である。幼名は長夜叉丸。
天文十七年(1548)に
父の朝倉孝景が急死し、
十六歳で家督を継承した。
元服後は孫次郎延景と称し、
天文二十一年(1552)に室町幕府将軍
足利義輝の「義」の一字を賜り、
義景と改めている。
天正元年(1573)、
織田信長との戦いに大敗すると、
一乗谷から大野郡の六坊賢松寺に逃れたが、
織田軍に寝返った大野郡司である
従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に合い自害した。
江戸時代特有の形をしている
五輪塔(義景墓)は、
寛政十二年(1800)、
旧家臣の子孫によって曹源寺境内に建立され、
文政五年(1822)に
現在地に移設されたものである。」
正面から中へ。
エントランス。
ここには、墓所の歴史が
年表にして詳しく記されています。
以下、一部抜粋です。
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天正元年(1673)
○○義景公 六坊賢松寺で切腹
寛政十二年(1800)
○○松田氏(朝倉家旧臣)曹源寺に墓を築く
文政五年(1822)
○○松田氏 義景公墓を現在地に移し、
○○二百五十回忌を営む
文政九年(1826)
○○瀧池氏(朝倉家旧臣)一乗後主廟碑建立
大正十二年(1924)
○○一乗庵にて三百五十回忌大法要を営む
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
義景さん、大切にされていますね!
そして、昨年(令和五年)には、
四百五十回忌が一乗谷朝倉氏遺跡で、
盛大に行われています。
※画像は国土交通省近畿地方整備局より拝借
長い間埋もれていた一乗谷城が
奇跡的に当時の姿で発見・発掘されたこと、
そして、旧臣はじめ多くの方々が、
朝倉義景さんをずっと想っている事・・
こんな見えない力によって、
朝倉氏が遺したものは、
永遠に引き継がれて行くのです・・
朝倉義景の墓。
参拝。
次に周囲に建つ、
家臣たちの墓などをお参りします。
義景の近臣、
鳥居景近と高橋景倍の墓。
明治四十四年(1911)に
旧家臣の子孫によって建立された、
義景の母高徳院、
義景夫人祥順院、
次男愛王丸を合祀した墓。
旧家臣瀧池家の墓。
明治三十四年(1901)に
荒廃していた墓所を有志らが
募金し、修理した時の石塔。
一乗後主廟碑。
ここまでで墓参は終了。
義景清水
参拝後は、
義景清水と名付けられた
公園の湧水池へ。
義景清水。
これは綺麗!
こんこんと水が湧いていますね!
本日の地下水位は63cm。
義景愛があるからこそ、
これを毎日変更できるのでしょう!
いいもの見られました〜(笑)