千栗八幡宮(佐賀県みやき町)前編

 

「ちりく」と読む理由

千栗八幡宮の「千栗」は、

「ちりく」と読みます。

一夜にして千本の栗の木が

逆さまに生い茂った

という逸話が語源で、

その場所に創建されたのが、

千栗八幡宮というわけです。

栗(くり)を逆さまに読むと「りく」、

千栗だから「ちりく」・・・。

地名って奥が深いものですね。

社頭

FUKUOKA 1DAY PASS」で、

太宰府から移動、久留米を経由し

佐賀県の千栗八幡宮前バス停で下車。

社頭はその目の前にあります。

社頭。

のこぎり形町並みの案内板。

社頭右側には

境内社や石碑などが建つ、

綺麗に手入れされた広場があります。

宮地嶽神社。

御神体?

岡先生顕徳碑。

この方を調べてみると、

佐賀出身のリコーグループの創業者、

市村清氏に行き当たりました。

市村さんの名前は、

4年前の幕末維新博覧会で、

幕末維新館として使われていた

市村記念体育館で知りましたが、

市村さんは中学を中退した後、

岡先生の私塾で勉強したそうです。

後年、岡さんが

千栗八幡宮の宮司となり、

その後、本殿建て替え時に

市村さんに寄付をお願いした所、

「若輩者(当時30歳位)の自分が、

もし後々問題を起こせば、

神社の名前に傷がつく」ということで、

最初は寄付を辞退したそうです。

その後、再度お願いされ、

結局、匿名で多大な寄付をしたという

逸話を知りました。

まさに陰徳ですね・・・

その後、市村氏は、

戦災で荒廃した明治神宮を再建すべく、

結婚式場の明治記念館を創業し、

今もその功績は引き継がれています。

観音様とお地蔵様にご挨拶。

エビスさんもいらっしゃいます。

本参道、石段前の風景。

狛犬は文化十一年(1814)寄進。

吽形。

肥前鳥居の案内。

要約すると

「聖武天皇の頃、神亀元年(724)に

養父郡司壬生春也

(みぶはるなり)により

創祀されたと伝えられます。(元国弊小社)

この鳥居は、慶長十四年(1609)

鍋島藩祖鍋島直茂公によって

奉納されたもので、

県内の石造肥前鳥居のうち

古いものの一つにあたります。」

このように書かれています。

慶長時代の肥前鳥居は、

佐賀市の本庄神社でも見ていますが、

そちらも鍋島直茂公の寄進でした。

そして、ここで知ったのが、

額の文字を書いたのが、

「洪浩然」(こうこうぜん)という

朝鮮半島の人だという事です。

少し調べると、

秀吉の朝鮮出兵時に12歳で捕虜となり、

日本に連れて来られ、

その後、鍋島勝茂に仕え、

各地に多くの書を残し、

最後は勝茂が死去した時、

追腹を切り(殉死)

76歳の生涯を終えています。

江戸時代初期のものとしては、

風化も進んでいなく、

かなり良好な状態に

保たれていますね。

洪浩然の書は、

400年の時を超え、

桜の木に見守られています。

文化七年(1810)寄進の燈籠。

盃状穴。

対になる左側の燈籠。

栄光への石段。

数年前他界された、

バルセロナオリンピックで

柔道の金メダリストとなった

古賀稔彦さんが少年時代、

この石段をかけ登り、かけ下り、

心と体を鍛えたと書かれています。

僕にとって栄光の石段となるのか?

それとも

疲労の石段となるのか(笑)

石段を登りきったところの狛犬。

吽形。

二の鳥居。

拝殿へ。

佐賀の神社定番、

お馬さんの石像にご挨拶。

参拝。

神額の文字は、

明治神宮宮司、

鷹司信輔氏の謹書です。

岡先生と、その教え子で、

明治神宮を再建した

リコーグループ創業者、市村さんとの

関連かも知れません。

ちなみに鷹司信輔さん、

Wikipediaによると

無類の鳥好きだったそうで、

鳥類学者でもあり、

「鳥の公爵」「小鳥公爵」と

呼ばれたそうです。

鳥好きの妻は、「鳥婆」、

いや、「鳥姫」かな(笑)

中に入ると・・・

幣殿手前に肥前狛犬が!

その案内が境内にあります。

千栗八幡宮肥前狛犬二基(一対)

案内を要約すると

「現在、拝殿内に

安置されているこの狛犬は、

参道石段最上段に

境内入口を守るように置かれていました。

砂岩系の石材を使用した

石造彫刻による狛犬一対で、

肥前狛犬の特徴を良好に残しています。

阿像の像高は57.5cm、

吽像の像高は50cmと

肥前狛犬の中では

比較的大型となっています。

また、阿像、吽像ともに、脚部間の

左右に銘が線刻されています。

阿像右銘「藤原 朝臣 信○」

阿像左銘「龍造寺 掃部助」

吽像右銘「(判読不能)」

吽像左銘「藤・・・以下判読不能」

制作年代については、

阿像銘文から

いくつかの説が展開できます。

まず、右銘を「藤原朝臣信忠」と

読むならば、

「天正十一年(1583)

千栗宮宝殿棟札写」に

「大願主出雲兵部大輔藤原朝臣信忠」と

記されている

千栗八幡宮宮柱の

出雲家の人物となります。

一方、「藤原朝臣信親」と読むならば、

龍造寺家臣「龍造寺信親」となり

「龍造寺掃部助(かもんのすけ)」

とも名乗った人物でもあるので、

阿像左銘とも一致します。

どちらにしても

安土桃山時代の人物であり

この肥前狛犬についても

安土桃山時代であると判断されます。」

このようになります。

阿形。

肥前狛犬初期型の

素朴で温かなディフォルメ具合、

ホントに素晴らしい!

真横から。

お顔アップ。

カバっぽくて可愛らしい!

吽形。

ここにアルコールが置かれているのは、

「なでなで」してもOK

ということでしょうか?

僕たちは遠慮して、

見るだけにしましたが・・・

真横から。

お顔アップ。

肥前狛犬にたっぷり癒やされた後、

本殿へ向かいます。(後編に続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください