長興寺・山本五十六の墓(長岡市)

 

お墓参りの副産物

お墓に参ると

「へ〜こんな事もしてたんだ〜」

などと、

今までの知識とは違う

故人の人となりが

感じられることがあります。

「お墓参りの副産物」とでも

言うのでしょうか?

昔から本や映画やネットで知っていた

著名人の山本五十六ですが、

そのお墓においても

しっかり副産物はいただけました(笑)

長興寺

山本五十六は、

長興寺の本堂に向かって左手の

墓地に眠っておられます。

長興寺の寺頭。

「戊辰史跡案内標柱」

寺紋は、長岡藩主牧野家の家紋、

丸に三ツ柏。

山本五十六の墓

本堂の参拝は後ほどする事として、

まずは五十六さんのお墓へ。

ここを真っ直ぐ。

ひときわ目立つ案内のお陰で、

迷うことはありません。

到着。

斜めからも全景を撮影。

後ろの高架橋は上越新幹線です。

「山本家の墓」

以下、案内です。

「長岡藩家老職山本家は、

武田信玄の軍師山本勘助の血脈。

代々、藩主牧野氏に仕え、

政治、文政に尽くした。

特に老迂齋精義ろううさいきよよしは、

名家老と称賛され、

歴代の藩主を

五十年にわたってよく助けた。

幕末、帯刀義路たてわきよしみちは、

北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。

会津飯寺で痛恨の死を遂げた。

山本五十六元帥は、

旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。

はやくから航空機の重要性を説き、

連合艦隊司令長官として、

近代戦を指揮したが、

昭和十八年四月十八日、

南冥に散華した。」

小学生の頃読んだ山本五十六の伝記で、

特に印象に残っているのが、

「(敵将の)ニミッツは(後方の)ハワイで

(悠々と)指揮しているそうじゃないか。

何でわしは(前線)のラバウルにいるんだ」

こんな言葉です。

山本五十六は、そう言いながらも

ラバウルよりさらに最前線の

ブイン基地に視察(激励)に行く途中、

敵機と遭遇、散華されています・・・

連合艦隊司令長官が、

自ら最前線に行くということは、

信頼できる部下がいなかったという

見方もできるでしょうが、

それが日本軍の限界だったのかも

知れません・・・

代々の墓の中の真ん中が、

五十六さんのお墓です。

まずはここから皆様にお参り。

五十六さんの墓に参拝。

戊辰戦争で亡くなった、

山本帯刀の墓にも参拝。

帯刀(たてわき)と聞くと、

長岡藩の敵方で、同時代の薩摩藩士、

小松帯刀を思い浮かべてしまいますが、

当時「帯刀」と言う名前が

流行っていたのかも知れませんね。

お墓と相対するように、

歴代の山本家当主の名を刻んだ

墓碑が建っていて、

その裏側を確認すると、

貴重な情報が記されています。

「旧長岡藩家老の山本家墓誌は

山本家を相続した

山本五十六によって記されています。

平成十六年(2004)十月二十三日の

中越地震で崩壊した墓碑の改修にあたり

父の戒名を加えて建立しました。

平成十九年(2007)四月十八日

山本義正」

昔読んだ本で知った事ですが、

五十六さんは相当な筆まめで、

多忙な中、ファンレターの返事も

かなり書いていた人だそうです。

そんな細やかな性格もあって、

このように立派な墓碑まで造り、

養子に入った山本家の祖先を

とりわけ大切にしていたのでしょう。

酒井晦堂かいどう先生の墓

帰りがけに案内が付いた

お墓を見つけました。

「酒井晦堂先生の墓」

以下、案内の抜粋です。

「酒井貞蔵は、

代々の長岡藩士の家に生まれ、

通称を貞蔵、晦堂と号した。

奥羽越の諸藩が同盟して、

新政府に対抗しようとした際、

晦堂は藩士を荒してはならないことを

上申したが、

藩論は戦いに決し、晦堂は悲しみ、

死を覚悟して戦場に赴き戦死した。

抜群の才を持ちながら

四十歳で没した晦堂を父は哀しみ、

戦士の地に碑を建立した。

のちにこの地に移された。」

参拝。

墓石の裏側。

「慶應四辰年七月廿九日戦死」

と刻まれ、それに続き、

追悼の和歌?が書かれています。

お父様が息子を想って

詠まれた歌なのでしょうか・・

合掌・・・

 

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