栄凉寺・河井継之助の墓(新潟県長岡市)

 

負けた側の歴史

長岡市は、二度も焦土となっています。

それは、

慶応四年(1868)の

戊辰戦争と第二次大戦末期の空襲です。

戊辰戦争では、

ここ栄凉寺のお墓も多くが壊され、

墓域を含む境内の多くは、

明治以降に復興されています。

戊辰戦争で旧幕府側の

奥羽越列藩同盟に加わった地域を巡ると、

戊辰戦争の荒廃からの復興という、

長岡市や、栄凉寺と同じような歴史が、

各地で見られ、

多くが明治政府側だった西日本にいると

全く感じなかった、

「負けた側の苦難の歴史」が

目の当たりに広がります。

大きな歴史の波が押し寄せ、

その抗い難い状況の中、

もがき苦しみながらも

長岡藩を何とかして守ろうと

身を削って奔走した河井継之助。

その人のお墓を参ることができたのは、

やはり、

「河井継之助推し」の

林修先生のお陰です(笑)

墓域へ

本堂参拝後、裏側の墓域へ。

道は本堂左から。

スズメちゃんたちがお出迎え(笑)

雨が上がった直後なので、

厳粛さをさらに感じられます。

二見虎三郎の墓

河井継之助のお墓は、

墓域の一番奥なので、

その途中いくつかのお墓にお参りしました。

「二見虎三郎の墓」

案内を抜粋すると、

「河井継之助が長岡藩の運命を決めた

小千谷おじや談判に随行した唯一の長岡藩士。

第二次長州征伐に従軍、三十三歳のとき、

戊辰の戦いが起こり、各地を転戦。

慶応四年(1868)八月二十五日、

会津若松城下七日町の戦いで負傷し、

同年九月十四日山形で没した。」

このようになります。

戦争を避けたいと臨んだ小千谷談判、

その決裂の瞬間を見ていたのですね・・・

三島億ニ郎の墓

次は、三島億二郎の墓を参拝。

以下、案内の抜粋です。

「北越戊辰戦争後、

再興された長岡藩の大参事となり

窮乏に瀕した士族の救済にあたったり、

長岡の復興のために尽力した。

また、北越食殖民社を創設し、

北海道開拓に情熱を燃やした。」

戊辰戦争で旧幕府側についた藩は、

その知行地の多くを召し上げられ、

北海道開拓へ活路を見出していますが、

やはり長岡藩もそうだったようです。

同じ奥羽越列藩同盟の一つだった

仙台藩が移住し開拓した

「北海道伊達市」などは、

現在の地名にもなっていて、

戊辰戦争では敗者だった人々の

その後の活躍が偲ばれます。

牧野家代々の墓

少し行くと、

この墓域最大の面積を誇る

長岡藩主、牧野家のお墓が

が見えてきます。

出迎えてくれるのは、

立派な五輪塔。

案内を書き出すと以下になります。

「右から牧野忠毅ただかつ忠訓ただくに忠篤ただあつの墓。

忠毅は十三代長岡藩主。

十一代藩主忠恭の第四子で

幼名を鋭橘えいきつといった。

北越戊辰戦争後、

再興された長岡藩の藩主となった。

忠訓は丹後宮津(京都市宮津市)藩主

本荘宗秀の第二子であったが、

忠恭の二女彜姫つねひめをめとり、

十二代藩主となった。

北越戊辰戦争では辛酸を舐め、

奥羽各地を転々とした。

忠篤は忠恭の第六子で、

初代長岡市長・貴族院議員となった。」

Wikipediaによると

ここで書かれた

「忠訓」さんのお父様、本荘宗秀は、

江戸時代の大名の中でただ一人、

富士山に登った人だと

書かれています。

参勤交代の途中に見ていた富士山に

登りたくて仕方なく、

最後は幕府に内緒で、

富士山弾丸ツアーを敢行したそうで、

相当な健脚だったのでしょう。

お参りへ。

綺麗に整備されていますが、

先ほどの五輪塔が、

江戸時代から残された墓石で、

こちらの墓地は、

戊辰戦争後で荒廃の後、

整備されたものと推察します。

一番奥に立つ「まとめの墓石」に参拝。

その後、先ほどの案内にあった

三人の藩主のお参りへ。

右から牧野忠毅ただかつ忠訓ただくに忠篤ただあつの墓。

河井継之助の墓

墓域の一番奥、

大きな木の下にあるのが、

河井継之助のお墓です。

見えてきました。

「河井継之助の墓」

以下、案内です。

「文政十年(1827)一月一日、

長岡城下同心町(表町)に生まれた。

幼少から文武にいそしみ、

主に陽明学を修めた。

河井家の禄高は、百二十石であったが、

その才腕を認められて長岡藩を指導し、

のちに家老上席、軍事総督となった。

北越戊辰戦争では、

新政府軍との小千谷おじや談判にのぞみ、

意見が通らず開戦となった。

長岡城攻防戦では、

よく奮闘してその名を高めた。

長岡城を奪還した際、傷を負い、

慶応四年(1868)八月十六日、

会津塩沢で陣没した。」

新政府軍へ、

「武装中立」を申し出るも

その志は遂げられず、

最後まで長岡藩のために戦い、

そして亡くなった河井継之助。

さぞ無念だったでしょう・・

お墓の背後には、

上越新幹線が通っています。

お墓の前には、

「河井家の墓は此處

忠良院殿が継之助の戒名です。」

このような標柱が建てられていて、

参拝者にはありがたいことです。

そしてここで注目したのが、

右下の小さな置物です。

河井継之助さんかな?(笑)

参拝。

すぐ裏側の河井家の墓にも参拝。

本堂前にてツーショット。

これにて

河井継之助さんの墓参りは完了し、

次は、このすぐ近くにある

山本五十六の墓へと向かいます。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください