温故創生館(山鹿市・鞠智城)

 

鞠智と菊池

ややこしいのですが、

古代山城の鞠智(きくち)城は、

熊本県菊池(きくち)市ではなく、

お隣の山鹿(やまが)市の

所在となっています。

「鞠智」が、なぜ「菊池」に変わったのか

その回答が鞠智城の資料館である

温故創生館にありました。

案内によると

「奈良時代初期の

和銅6(713)年に、

日本全国の国名、郡名、郷名などを好字

(良い意味を持つ字。縁起の良い字)の

二文字に統一するようにとの命令が

だされたことによります。

鞠智城の「鞠智」も、

このような流れの中で、

「菊池」と文字が

変わったものと考えられます。」

このように書かれています。

そんな命令があったとは・・・

平成の市町村大合併でも

昔の地名が消えて新たな名前が

たくさん出来ましたが、

1300年前にも

同じことがあったのですね!

歴史は繰り返す・・・

これを知っただけでも

温故創生館に入った価値は

十分あるでしょう(笑)

鞠智城へ

南関町の坂下阿蘇神社を出て、

車で約1時間、鞠智城に到着。

鞠智城跡周辺案内図。

入り口。

温故創生館(館内)

城内の散策前に、

事前情報をインプットするため、

ガイダンス施設である

温故創生館へ。

温故創生館、外観。

10分ほどの映像を見た後、

館内を散策。

充実した展示内容で、

全てを書くのは無理(笑)

なので、

要点をかいつまみます。

鞠智城とは

ここは鞠智城博士になれそうなくらい

パネル展示が充実しています。

「鞠智城は7世紀後半、

今から約1300年前に

大和朝廷によって築城された

古代山城です。

(中略)

660年、唐と新羅の連合軍によって、

日本と友好関係にあった

百済が滅ぼされます。

日本は、百済の復興を支援するために

援軍を送り込みますが、

663年の白村江の戦いで

唐・新羅連合軍に大敗し、

百済の救済に失敗しました。

その結果、今度は唐と新羅による

日本侵攻の脅威に、

直接対処せざるを得ない情勢になります。

そこで、大和朝廷は

西日本を中心に防御体制を形成します。

九州では最前線基地として

金田城(長崎県対馬)が築城され、

大宰府を防衛するために

大野城(福岡県)

基肄城(佐賀県・福岡県)が築かれます。

それらの背後に位置する鞠智城は、

防衛施設であったと同時に

食料や武器などを

前線に供給するための

兵站基地であったと考えられています。

しかし、結果として唐と新羅による

日本への侵攻はありませんでした。

鞠智城はその後、

役所的な役割を持つ施設や

食料を貯蔵する施設などに変化し、

10世紀半ばまで存続しました。」

このように書かれています。

「結果的に侵略が無かった」

この背景の一つには、

日本軍の防衛体制が

万全だった事もあるでしょう。

要するに

「日本は戦争が起きないために

徹底して戦争準備をした」

という訳ですね。

そういった意味では

今の日本と周辺国の状況は、

1300年前と

大して変わりはないようです。

まさに「温故創生」という言葉が、

ここで生きてきますね(笑)

それは、

「備えあれば憂いなし」

ということでしょうか?

朝鮮式山城とは?

案内の内容も含め、簡単に言えば、

663年、白村江の戦い直後、

西日本に作られた山城で、

日本書紀など文献に記載のある

城を「朝鮮式山城」といい、

文献には記載が無いが、

遺構があるものは、

「神籠石(こうごいし)」とされてきました。

ただ、近年は神籠石も朝鮮式山城と

同一のものとして、「古代山城」などの

記載となってきたようです。

鞠智城の俯瞰図。

高校生が作った、鞠智城のジオラマ。

版築土塁

古代山城での定番は「版築土塁」。

版築土塁の説明。

「版築とは砂を中心とした層と

粘土を中心とした層を交互に付き固めて、

強固な壁を造る大陸伝来の技法です。」

「高さ3mを超える壮大な土の壁は、

見るものに圧倒的な存在感を

与えたに違いありません。」

このように書かれています。

「圧倒的な存在感」

これも敵側からすると、

攻撃を躊躇する要因の一つですね。

唐・新羅のスパイが

「日本人、凄い城壁作って、

待ち構えてまっせ!

攻撃は大変かと思います」

なんて本国に連絡していたかも(笑)

版築の模型。

これを見て妻が一言、

「これ見ても

版築がわから~ん!」

確かにわかりにくいですが、

妻が正直に口に出したことで、

鞠智城の散策の最後に、

奇跡的というか、

驚くべきことが起きたのですが、

それはまたのブログにて(笑)

銅像菩薩立像

鞠智城で発掘されたものの中で、

一押しが「銅像菩薩立像」です。

調査の歴史の中では、

最後から三番目、

平成20年(2008)の発見です。

貯水池池尻部から出土したもので、

仏像が7世紀後半の

百済仏の特徴を持つことから

亡命していた百済の貴族が

持っていたものと

推定されています。

レプリカ&復元。

高校生の作品群

鞠智城のジオラマもそうでしたが、

ここには高校生が作った

素晴らしい作品が

いくつも展示されています。

八角形建物。

八角形建物の断面模型。

各パーツに名札が付けられ、

詳しく知ることができます。

その一つ、

心柱は五重塔と同じく、

建物の重みはかからず、

地震の揺れを

吸収するためのものだと

書かれています。

米倉と兵舎。

展望所

二階の展望所へ。

鞠智城のシンボル的存在、

八角形建物など公園を一望。

最後に

鞠智城のマスコットキャラクター、

「ころう君」と妻のツーショット。

左横の「土生遺跡」のポスターが

存在感放っていますね(笑)

 

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