大頭龍神社(静岡県菊川市)
猿田彦大神の導き?
高天神城から
島田市の大井神社を目指している途中、
道が枝分かれした場所に
猿田彦神社を見つけました。
この旅に導いてくれた事に感謝をしようと
社頭まで行きましたが、
そこには駐車スペースがなく参拝を断念。
意外とあっさりしている僕達(笑)
その後、本線に戻り少し走ると、
偶然に見えたのが赤い鳥居です。
大頭龍神社
(だいとうりゅうじんじゃ)。
僕達はこの神社の事を
全く知りませんでしたが、
何となく参拝したくなったので、
行ってみることに。
そこで出会ったのが、
境内社の猿田彦大神。
やはりお導きはあったのかな?(笑)
御由緒
大頭龍神社さんのサイトによれば、
「正親町天皇天正2年(1574年)
高天神城落城の時、
武田勝頼率いる軍勢が当社及び
大龍院を残らず焼き払ってしまった為
残念ながらそれ以前の
詳しい記録は残っていませんが、
口伝によりますと、
桓武天皇延暦十一年(792)
勧請と伝えられ、
山を神と仰ぎ初期のころは、
ご社殿は無く後々になって
本殿拝殿が建立されました。
「遠江古蹟圖繪
(享和三年― 1803年)」によると
本社は大物主尊を祭り、
奥の院(ここには宮はなく、
石が一つ据えられていた)を
大頭龍と言った。
それを参詣者が大頭龍として拝み始めた。」
とあります。
山を奥の院(大頭龍)と称し、
前庭に大龍院という
天台宗の寺院がありその傍らに
山王権現が祭られていました。
焼失の後、
大頭龍権現と山王権現を相殿とし
天正8年(1580年)に再建され、
現在まで遠州地方だけでなく、
駿河から三河地方に至るまで
多くの人々に参拝されております。」
このようになります。
ここで書かれている遠江古蹟圖繪を
国会図書館デジタルコレクションで
調べてみると・・ありました(笑)
かなり詳しい境内図があるので、
位置関係が良く理解できますね。
また、昭和20年に
金属供出されてしまったという
天明六年(1786)建立の
鳥居前の青銅製燈篭も
「金燈篭」と記され、描かれていて、
テンション上がってきますね!
百聞は一見に如かず、
やっぱり見るのが一番かな?(笑)
参道
社頭に広い駐車場があるので、
今度は参拝出来ます(笑)
遠江古蹟圖繪が描かれた当時は
赤い鳥居だったものが、
文政七年(1824)、
現在の青銅製鳥居になっています。
約200年前の鳥居ですが、
こちらは昭和20年、
金属供出で解体寸前、
終戦となって生き残っています。
(神社さんサイト情報)
そんな幸運の鳥居をくぐるだけで、
何だか運気が上がりそうですね(笑)
参道を進むと拝殿が見えて来ます。
手水舎。
龍神様のお口からは、
ちゃんと水が流れていて、
正直、ホッとするのは
何故なんでしょう(笑)
最後の階段。
宝暦十三年(1763)
再建の拝殿にて参拝。
拝殿内。
正面には巨大な「笛」が
奉納されています。
掛川市の事任八幡宮でも
「日本一の大笛」なるものが
奉納されていましたが、
このあたりでは、
笛の奉納が一般的なのでしょうか?
拝殿前の「巳石」。
案内などはありませんが、
御祭神の「大物主大神」の
日本書紀に書かれた
箸墓(はしはか)古墳に
まつわる逸話が
関係しているかも知れません。
簡単に書くと、
「倭迹迹日百襲姫命
(やまとととびももそひめのみこと)が
夜しか通ってこない大物主に
昼の姿を見たいと言ったところ
実は蛇だったので驚いた。
恥をかいた大物主は、
三輪山に帰り、
姫ががっかりして座った時、
箸が「お○○こ」に刺さり死んだ。
この墓が奈良県の
最古の前方後円墳、
「箸墓古墳」である」
こうなります。
日本神話には、これ以外、
女性の「あそこ」を突く話が、
何度も出てきますので、
これは普通にあるお話と
思っていいでしょう(笑)
拝殿横から本殿へ。
文化十二年(1815)
再建の本殿に参拝。
境内社など
本殿横で出会ったのが、
冒頭で書いた、猿田彦神社です。
良かった~
導きの神様にお礼が出来る!!
二人で喜々としながら参拝完了。
あ~スッキリした~(笑)
こちらは、ご神体山遥拝所。
御由緒で書かれていた、
奥之院がこの先にあるようです。
そして、ここを参拝後、
社務所にて
御朱印をいただきました。
猿田彦大神様と御朱印のツーショット。
次に・・・
僕達のツーショット(笑)
これにて、
大頭龍神社の参拝は完了です。
今日のランチ
お腹ペコペコだった僕達は、
神社を出てすぐに、
運良くスーパーに遭遇。
SUPER LUCK。
静岡の地場スーパーでしょう。
妻は「とろっとオムライス」。
僕は「弁当 イカなす葉びる炒め」。
どちらも美味しくて大正解!
SUPER LUCKの名前通り、
間違いなく、
SUPER LUCKYな二人でした(笑)