大宰府展示館(福岡県太宰府市)

 

アナログの真骨頂

大宰府展示館訪問のきかっけは、

博多人形による

「梅花の宴」再現ジオラマが

展示されていると知ったからです。

実際に訪問すると、

これ以外にも多くの見どころはあり、

写真も沢山撮りましたが、

やはりメインはジオラマ(笑)

アナログの真骨頂、

ジオラマならではの臨場感によって

今でもその光景が、

目に焼き付いています。

大宰府展示館へ

大宰府展示館は、

大宰府政庁跡の東南に位置し、

徒歩ゼロ分の好立地。

ここから回れ右すると、

すぐに入口は見えてきます。

入口。

ここで、嬉しいものを発見!!

営利目的でなければ、

基本、写真撮影はOK。

写真が無ければ

記憶に残らない僕としては、

有り難い限りです(笑)

令和

「初春の令月にして

気淑く風和ぎ

梅は鏡前の粉を被き

蘭は珮後の香を薫らす。」

梅花の宴で詠まれた

この歌の「令」と「和」から

令和という元号となりました。

ジオラマの台座には、

この「令和」という元号の考案者とされる

中西進氏の

メッセージが紹介されています。

自筆の原稿用紙も拡大展示され、

中西氏の人柄まで伝わってきそうです。

素敵な文章なので、

一部を抜粋してみます。

「今や太宰府市は、

「万葉集」の中で大伴旅人や

山上憶良が梅花の宴を催し、

品格の高い優雅な作品を残した所だと、

日本中の人が知るようになっています。

とくに、その折の文章から

元号が採用されたことも、

理由の一つでしょう。

しかしそれだけではありません。

万葉の梅にもとづいて、

後に赴任した菅原道真も、

都の梅に向かって香りを

九州まで届けよと歌いました。

この歴史は、

みごとな「遠の朝廷」ぶりです。

その文化力は現在に引き継がれ、

何物にも負けない

日本人の心の力となっています。

太宰府市のみなさんは、

この誇り高い心力の

お手本になって頂きたいと思っています。

そもそも令和の令は

自らを規律していく美しさを意味します。

それこそ梅の香りのように、

かぐわしい美しい生き方でしょう。」

(文中の「遠の朝廷」とは「大宰府」の事)

このメッセージを読んで、

太宰府市の方々にとっての

「令和」という元号が、

さらに特別なものになった気がします。

左、「新元号「令和」について」

右、太宰府と新元号「令和」

それぞれの案内があります。

「梅花の宴」再現ジオラマ

ここからがクライマックスの

梅花の宴です(笑)

天平二年(730)の正月13日、

大宰師・大伴旅人邸で開かれた歌会、

「梅花の宴」のジオラマは、

「令和」に合わせて作られたものではなく、

人形作家 山村延燁(のぶあき)氏が、

今から30年以上前に製作されたもので、

ご本人は10年前に他界されています。

要するに、

山村氏が世にこの作品を出して30年、

氏がお亡くなりになって7年近く経って

初めて脚光を浴びたのです・・・。

「人は死して名を残す」とは

まさにこの事を言うのでしょう。

空の上から、

どれほど「令和」という新元号を

喜び寿いでくださっていることか・・・。

僕たちがこうして

梅花の宴のジオラマに出会えたのも、

山村氏の存在あってこその事、

心から感謝しかありません・・・。

梅花の宴。

梅の木アップの別角度から。

登場人物の解説。

以下、それぞれの人形と、

解説を要約してみました。

大伴旅人。

(梅の花冠が可愛らしい!)

「720年、征隼人特節大将軍として

一度九州に赴任し、その後、727年頃

大宰師として再度赴任。

赴任後、妻を亡くす悲しみもありましたが、

山上憶良らとの交友を通じて、

730年には「梅花の宴」を開催するなど

万葉文化の中心人物として活躍しました。」

このように書かれています。

旅人さんが亡き妻を想う歌、

坂本八幡宮にも歌碑がありました・・・

小野老(おののおゆ)

「この地で詠んだとされる歌

「あをによし 奈良の都は 咲く花の

薫ふがごとく 今盛なり」は有名です。

「梅花の宴」や香椎宮に

参詣した際の歌を残しています。」

このように書かれています。

よく聞きますね、「あをによし」(笑)

そして、

延喜式神名帳が出される

約200年前の730年頃、

既に香椎宮が

この方の歌に詠まれていることで、

香椎宮の歴史が、

1300年あることが確定しますから

こちらも凄い事ですね。

児島。

「児島は宴などの席で歌や舞、

踊りなどを披露する

遊行婦女(うかれめ)という

仕事をしていた女性です。

歌の才能にも秀でていたようで

「万葉集」には、3首が収められています。

そのうち2首は、730年に都へ帰る

大伴旅人を水城へと見送りに来た際に

交わした歌で、別れを悲しみ、

涙を拭い、袖を振って

詠んだ様子が記されています。」

このように書かれています。

旅人さん、慕われていたんですね!

満誓(まんぜい/まんせい)

「美濃や信濃を結ぶ道・木曽路を

開通させるなど優秀な役人でした。

その後、

元明上皇の病の平癒を願って出家をし、

満誓と名乗りました。

大宰府には、723年に

観世音寺を造営するための

担当官・造観世音寺別当として

赴任しています。」

このように書かれています。

台座の漢文。

令和だけがわかります(笑)

梅花の宴とその後の饗宴で

出だされた食事の再現。

こちら、1991年の作品です。

太宰府のジオラマ

もう一つのジオラマが

大宰府全体のものです。

平城京の縮小版ですが、

それでも「遠の朝廷」としての威容は

かなりのものでしょう。

条坊制の全体。

近影。

使節団。

政庁部分。

外観

館内を楽しんだ後、

外に出ると、

雲が減り、かなり晴れていました。

入口の反対側が正面のように見えます。

顔出しパネル発見!

やるしかないか~(笑)

大伴旅人になり切った妻?

本日の映像

太宰府展示館では

映像でもバーチャルな楽しみ方が出来ます。

僕たちは時間が無くて、

少し見ただけですが、

この映像は、

実に素晴らしいものですので、

時間が有る方にはオススメですよ!

 

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