法樹寺(兵庫県朝来市)

 

口実は何でもいい

古来より、

「罪人」として処刑された武将の、

罪状の多くは「適当」です(笑)

権力闘争では、

生きるか死ぬかなのですから。

「殿ご乱心」などと言ったものも

多くは「殺す口実」「改易の口実」。

そんな適当な口実で切腹したのが、

竹田城最期の城主、赤松広秀です。

関ヶ原の戦いの前は西軍に味方し、

そこで、西軍が負けてから東軍に従い、

鳥取城を攻め、落城させたものの、

その城下を焼き尽くしたという罪で、

徳川家康から切腹させられています。

城攻めで城下が焼けたり

住民が皆殺しにされるなんて、

珍しくもない事ですから、

これはあくまでも口実で、

家康としては赤松広秀を

生かしてはおけない

理由があったのでしょう。

現在ある竹田城の姿を

作ったという赤松広秀ですが、

あれから400年経ち、

今は天空の城として人気になった

かつての居城を見て、

「切腹はめっちゃ痛かったけど

俺、あのお城作って良かったな!」

な~んて思っているのかもですね(笑)

法樹寺へ

竹田城から下りて来た時、

体力消耗が著しい僕たちは、

気力もかなり衰えていて、

手元にある観光案内図なども、

全く見る余裕もなく、

ただ駐車場を目指していました。

竹田城の麓にあった

忠魂碑広場から出てすぐを右に曲がると

竹田駅に沿った道に出ます。

この道を真っ直ぐ行って、

左に折れると、駐車場です。

竹田駅のホーム。

後で知った事ですが、

竹田駅の駅舎は明治39年の

駅開業時そのままのものだそうで、

正面からの竹田駅を

撮影していなかった事を

ちょっぴり後悔しましたが、

これは「また来いよ!」の

竹田駅からのサインと思い、

再会を楽しみにすることに(笑)

そして、少し歩くと、案内板を発見。

「赤松広秀供養塔」

「竹田城最期の城主」

これ見ただけで興味を惹かれます。

勿論(笑)行くしかありません!

供養塔がある法樹寺のエントランス。

背後の山に竹田城の石垣が見えています。

そして、目の前の石橋は、

享保八年(1723年)に

架けられたといわれているものです。

橋のたもとにある案内板には、

「法樹寺は竹田城廃城後の

慶長十一年(1606年)、

赤松広秀の居住地である

この場所に移転した。」

このように書かれていますので、

切腹させられた赤松広秀の

菩提を弔う意味で

このお寺の存在が

あるのかも知れません。

山門。

本堂は、

寛文七年(1677年)~

貞享五年(1688年)の再建です。

(案内版による)

扁額。

本堂前の可愛らしい石仏。

何とも言えず、癒やされます。

参拝は無事完了し、

本来の目的地、「お墓」へ。

「城主 赤松広秀の墓」の道案内。

道端と石橋の前にあった案内では

「供養塔」でしたが、

こちらの案内では「お墓」と書かれています。

歴代住職の墓。

「西国三十三所観音石佛」の案内。

石仏群は、ここ赤松広秀の居宅から

竹田城の道中に置かれていたものが、

紆余曲折ありながらも

今はここに奉賛されています。

赤松広秀の墓(供養塔)が、

見えて来ましたが、

僕が気になるのは手前の石垣(笑)

竹田城の一部だったのか、

お寺の一部だったのか・・・。

何れにせよ、江戸時代以前に

積まれたもののようです。

赤松広秀の墓(供養塔)。

案内。

墓標の側面には、

「虎臥城主赤松佐兵衛輔廣秀乃之墓」

と刻まれています。

虎臥城(とらふうすじょう・こがじょう)は、

竹田城の別名です。

「墓」と書かれているから

やはり墓なのか、

それとも切腹場所の

鳥取の真教寺にあるお墓にこそ

遺骨があるのかは、分かりません。

赤松広秀の墓に寄り添うように

無縁仏の墓があります。

これで、赤松広秀の

お墓(供養塔)参拝は完了し、

本堂付近へと戻ります。

本堂向かって左手の句碑、石碑。

鐘楼。

鐘楼の屋根瓦には、

取手のようなものが付いています。

この後、これが何なのか、

気になっていると、

何と竹田の町にあるお寺や神社、

そして民家などの多くが、

「取手付き」屋根瓦なのです!

いったい何の為の取手なのか、

解明する日は何時来るのかは、

分かりません(笑)

お地蔵様

本堂では賽銭箱が、

見当たらなかったので、

参拝の最期は、

お寺の山門前にいらっしゃるお地蔵様に

お賽銭をあげることにしました。

掃除も行き届き、

美しく保たれたお地蔵様たち。

その中で、目をひくのが、

真ん中の石碑です。

「南無阿弥陀佛」と書かれた右横に、

「享保八年」の文字、

そして、その下には、

「此石橋掛」と刻まれています。

という事で、

これは目の前の橋の建立を

記録した石碑でした。

貴重なものを発見出来た事、

お地蔵様のお陰と心から感謝です。

 

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