延暦寺・東塔(大黒堂)
此岸と彼岸
此岸とは僕たちがいる
煩悩真っ只中の(笑)世界。
彼岸とは生死の先にある悟りの世界。
そして、東塔の伽藍が建つ
参拝者にメジャーな地域は此岸、
そこから外れ、
修験道・獣道が巡らされた
森深い場所は、
彼岸に近いと言えるでしょう。
僕たちは、
慈覚大師円仁廟に参拝したことで、
この二つを感じる機会を得た気がします。
もちろん、僕自身は、
悟りの境地なんて、
一生到達しませんけどね(笑)
大黒堂
慈覚大師円仁廟に無事参拝後、
東塔地域に戻り、大黒堂へ。
大黒堂は右側。
まずは、大黒堂横のお地蔵様に参拝。
「出世大黒堂」
以下、案内です。
「伝教大師が、
根本中堂を建てられる折り
守護神として大黒天を祀り、
一山の平安と一般庶民の財福を
祈ったのが始まりで、
豊臣秀吉公も開運と福徳を
祈願した故事もあり、
一名出世大黒天として、
人々に深く信仰されています。」
中に入って「三面出世大黒天」に参拝。
堂内の写真撮影は禁止なのですが、
実際に拝ませていただいた大黒天は、
こんなお姿です。
まるで阿修羅像のように
お顔が三面あるんですよ!
こんな大国様はかなり珍しいでしょう。
絵馬にもいらっしゃいます。
福田海 奉納牛
大黒堂参拝で、
東塔地域での散策はほぼ完了。
大黒堂からは、
鐘楼、大講堂を通り、
延暦寺バスセンター側(北側)の
巡拝受付へと戻ります。
大講堂への道。
この右側に安置されているのが、
こんな牛さんです。
優しい目をしていますね。
案内を書き出すと、
以下になります。
「福田海 奉納牛像
宗教法人福田海(岡山市)は、
一生を人間のために尽くす
牛の供養を実践されることでも知られる。
その開祖中山通幽師は、
明治維新の神仏分離や境内地没収などで、
延暦寺が窮乏を極めたとき、
根本中堂の不滅の法灯のための種油を、
自ら背負って寄進を続けられた。
その深いご縁を以て
明治三十一年九月不滅の法灯は
福田海に分灯され、
更に昭和九年秋、
根本中堂近くの参道に
牛の銅像が寄進された。
このとき牛像の裏側には奉納の趣旨が
「年々屠殺の牛魂追福のためなり」と
刻まれていた。
その後、銅像は
第二次世界大戦のため供出され。
代わりに石像がここに安置された。」
まさかの友は真の友・・・
苦しい時に助けてくれたその恩を
延暦寺さんは、
敬意を持って表現されています。
「福田海」をネットで調べると、
ちょうど中間地点にお寺があり、
そこには、
牛を供養する為に牛の鼻ぐり
(鼻に付ける輪っか)を
円墳の上に集めた「鼻ぐり塚」という
牛の慰霊場があるのです。
以前参拝した、
牛を大切に祀る田倉牛神社も
岡山県吉備市に鎮座していたし、
なんか岡山と牛の関係って、
深いものがある気がします・・・
絵看板
延暦寺では多くの絵看板で、
様々な高僧の功績を
知ることができます。
とにかく膨大な数なので、
なかなか全部を掲載できませんが、
東塔の絵看板で、
記録に残したい三枚をここで紹介します。
「空也上人(903〜972)」
「金鼓を打ち鳴らして
南無だ南無だと唱え乍ら身振り面白く
踊る動作に裘がバサバサと音を立て、
左手に持つ杖頭の鹿の角が
生き物のように動き、
腰の瓢箪がほがらかにはねている。
年とともにこの伝導は広さと厚みを加え
民衆は親しみをこめて、
市の聖、空也上人と呼びはじめた。
後、浄土思想を広め、
尚今日に於いても
盆には街々で開かれる盆踊りは
此の空也上人が開かれたものである。」
空也上人と言えば、
六波羅蜜寺の口から南無阿弥陀仏の
仏像が出ている空也像が有名ですね。
「道元禅師(1200〜1253)
曹洞宗御開山」
「禅師は求法のため中国に渡り、
その船で上陸の準備をしている時、
一人の老僧が、
日本の珍しい椎茸を買いに来た。
聞けば名刹背王山の偉い和尚とのこと。
禅師は中国仏法を尋ねたが、
「貴僧はまだ修行が
文字のなかでなく
日常のなかにあることを知らぬ」
と云って去ってしまう。
道元禅師はただひたすら
発奮するのみだった」
中国の僧との出会いは、
恐らく道元禅師にとり、
エポックメイキングな
出来事だったのでしょう。
「天海大僧正(慈眼大師)
(1536〜1643)」
「比叡山の僧にして
徳川家康公の信任厚く
黒衣の宰相として知られる。
比叡山をふり出しに
全国を修行して歩き
再び比叡山を志したとき、
織田信長の比叡山焼打ちにはばまれた。
石田三成の挙兵を知り
神田薬師堂で護国の祈祷を修して
家康公の信頼を得た話は有名。
また家康公に山王一実神道を説き
諸法度を下すのに参与し、
後の秀忠、家光と三代の将軍について
幕政に参画、政権確立に貢献した。
中でも日光山を与えられ、
この造営に尽くし
晩年上野の東叡山寛永寺の開山となり、
国家安泰を祈ったことは
よく知られている。」
言わずと知れた天海さん、
やはり家康にとって
なくてなならない
重要な人だったはずです。
そして、
この絵看板をよく見ると
その背景にびっくり!
これと全く同じアングルの写真を
延暦寺訪問の半年ほど前、
令和5年春の日光東照宮参拝時に
僕は撮っていたのです。
ここは、陽明門(右)と
拝殿の唐門(左)の空間です。
改めてこの写真を眺めると
何だかここに
天海大僧正が立っておられる
気がしてきます・・・
見えない力で、
天海さんとのお引き合わせが
あったのかも知れませんね!
(延暦寺・西塔に続く)