弘前城(青森県)御日記蔵跡

 

幕府への配慮

関ケ原の戦いの論功行賞で、

領地を安堵された大名たちは、

新たな城造りとして、

こぞって五階建てなどの大天守を

建てていましたが、

慶長二十年(1615)、

大坂夏の陣で豊臣家が滅び、

徳川の治世が揺るぎないものになると

徳川の息がかかった福山城など

一部の城でしか大天守は

建てられなくなりました。

それは、

幕府にイチャモンをつけられて

改易されないようにする為の

知恵でもあり、

その後、家光が建てた

江戸城の巨大天守が明暦の大火で焼失後、

幕府が新たな天守を建てなかった事にも

関係すると思います。

平和な世の中となり、

「権威の象徴」としての天守の役目は、

終わっていたのでしょう・・・

ここ弘前城でも五層天守焼失後、

大天守は建てられていません。

現在の天守は「三階櫓」として

幕府に届けられたもので、

幕府への配慮が痛いほど感じられますね。

御日記蔵跡

天守内覧後、出口正面の大木へ。

推定樹齢220年以上の

ウラジロモミ。

案内を書き出すと、

「ウラジロモミは、

福島県が北限であり、

樹齢100年を越えると構勢が衰えてくる。

九代藩主寧親が参勤交代の帰りに

日光を参拝したときの

記念物と考えられる。」

寧親さん、天守を再建したり

日光から木を持ってきてり

何かと積極的な方ですね!

店主南側。

これに対面してあるのが、

御日記蔵跡です。

蔵の跡。

「御日記蔵跡」

以下、案内です。

「弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記は、

寛文元年(1661)に

四代藩主津軽信政の初入部以降

明治に至るまで綿々と書き続けられ、

津軽藩政のみならず

近世幕藩体制を知る

重要な史料となっている。

この日記は、

現在四千二百冊余が残されているが、

これを保答した蔵がここにあった。」

凄いものを残しているんですね、

弘前藩は!

Wikipediaによれば、

江戸藩邸での「江戸日記」というものも

残しているそうです。

日記を書く役目の人、

大変ご苦労様でした!

本丸坤櫓跡(旧天守跡)

次に五層天守があった場所へ。

天守焼失後は櫓が建てられていますので、

天守台自体の面影はありませんね・・

以下、案内です。

「ここには、築城当時は

五層の天守閣があったが、

寛永四年(1627)に

落雷で焼失したために、隅櫓が建設された。

元禄七年(1694)に石垣を修理した際、

不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、

最勝院に保存されている。

櫓の方角を十二支で示したもので、

未申は南西に当たる。」

櫓台へ。

西側には岩木山が見えています!

五層天守の最上階からは、

さらに素晴らしい眺望だったでしょう。

櫓台下の石垣は、

美しい打込み接ぎ布積みですね。

イチョウ

次に西の廓にそびえる

巨木のイチョウ見学へ。

御日記蔵跡の石垣を横目で見ながら

坂を下ります。

下りは楽だ〜!

ということは、

また登りが待ってます(汗)

本丸(右)と西の廓の間にある

「蓮池」という名の濠(堀)。

そして、イチョウに到着。

大きさ比較のため妻登場。

案内。

樹齢は300年以上、

元は土塁上に植えられていてもので、

後年土塁が壊されたため

根が露出する事になったと

書かれています。

これは圧巻!

改めて根っこで興奮!

二の丸東内門

ここから「門」巡りがスタート(笑)

慶長年間に建てられた

二の丸東門(城内側)。

城外側。

基本、弘前城の門は、

ほぼ同じデザインをしています。

画一化は効率化、経費節減に繋がり

メリットだらけかも知れません。

東門

次に東門から外濠へ。

弘前城、五万石のお城にしては、

超巨大です!

(実高は10万石以上あったそうな・・)

東門に到着。

銅瓦の綺麗な緑色、

なんか名古屋城を思い出します(笑)

城外側から。

この後は一旦城外に出て

「弘前藩ねぷた村」へ。

北門(亀甲門)

ねぷた村で楽しんだ後、

再度弘前城へ。

外濠の北東隅。

ここは弘前城北の端。

亀甲橋を使い、四の丸へ。

北門(亀甲門)に到着。

こちらも慶長年間、築城時の遺構です。

城内側から。

弘前城の魅力はこの土塁。

門の横に土塁がある風景、

なんとも素朴で素晴らしいな〜

これで重要文化財の五つの門、

コンプリートです。

丑寅櫓

四の丸では、

まず青森縣護国神社を参拝し、

その後、お城散策を再開。

食い違い虎口っぽい風景。

中濠を挟んで二の丸に建つ丑寅櫓。

こちらも築城当時からのもので、

弘前城の「本物っぷり」(笑)

半端ありませんね。

二の丸側から見学。

二の丸東門与力番所

追手門前の駐車場を目指し、

二の丸から三の丸を散策。

庭園。

二宮金次郎像も建っています。

どこかの小学校から移設したのかな?

与力番所。

「与力番所とは、

城内の主要な箇所の

見張り所として配置されたもので、

藩政時代には追手門与力番所、

三の丸東門与力番所等

十二ヶ所にてられていたようである。

この与力番所の建築年代は定かでないが、

柱や梁に残され墨書きは

江戸時代初期に建てられた

三の丸東門の墨書き跡と酷似し、

構築手法は江戸時代中期の

様相を呈していることから、

古材を利用し、江戸時代中期に

一度改修したものと推定される。」

このような案内があります。

弘前公園最長寿のソメイヨシノ。

案内を抜粋すると

以下になります。

「旧藩士の菊池楯衛から

明治十五年に寄贈されたもので、

現存するソメイヨシノでは、

日本最古級である。

ソメイヨシノは生長が早いわりに

寿命が六十年から八十年とされていたが、

弘前公園のソメイヨシノは

百年を超すものが四百本以上あって

立派に花を咲かせている。」

これは凄いものを見られましたよ!

令和6年現在、

樹齢140年以上なんですから!

長寿にあやかったところで、

弘前城の散策は完了です。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください