人吉城(熊本県人吉市)後編
旅と天気
この日の人吉・球磨地方の天気予報は
「暴風雨」だったのですが、
実際に訪問してみると、
時折小雨が降るものの
風も強くなく、ほぼ「曇り」で、
僕は傘も車に忘れるほど(笑)
今までの旅を振り返っても
出発前日までは、雨予報でも、
当日は何故か晴れる日が
かなり多い僕たちです。
昨年、大雨で急遽参拝を翌日に回した
出雲大社では、代案として訪問した
中身の物凄さに感動しっぱなしで、
その雨が作ってくれたご縁がなければ、
その後、博物館系を旅程に入れることもなく
今回の人吉城歴史館も行かず、
旅の充実度は、これほど無かったはずです。
僕たちにとって「天気」というものは、
晴れても、雨が降っても、
強い味方というわけですね(笑)
本丸
二の丸の奥には本丸下の石垣が
しっかりと残っています。
草が生えていますが、
見ごたえは十分ですね。
石段で本丸へ。
本丸全景。
案内には、ここに天守は建てられず、
寛永三年(1626年)に護摩堂が
建てられ、その他に御先祖堂や太鼓屋、
山伏番所があったと書かれています。
江戸初期、多くの大名、
わけても外様大名たちは、
将軍家徳川氏を刺激しないように
天守を造らなかったり、破却したりと
相当な気の使いようだった事を考えると、
相良氏が天守を造らなかったのも
徳川氏に対しての遠慮が
あったのかも知れません。
護摩堂の礎石。
本丸から東側の景色。
三の丸
本丸から二の丸を通り三の丸へ。
奥に見えるのが三の丸。
二の丸への石段。
三の丸へのエントランス。
三の丸から見た二の丸の石垣。
三の丸の入り口は、
桝形虎口的な作りです。
桝形虎口を下から見た写真。
これで、人吉城の中心は散策完了。
ここからは、また人吉城歴史館を通って、
角櫓や多門櫓、大手門跡へと向かいます。
人吉歴史館の裏側。
ここから少し行くと復元された
角櫓が見えて来ますが、
その前に古い石碑を発見しました。
御下の乱供養碑。
案内。
寛永十六年(1639年)に起きた
御下の乱で亡くなった121人の慰霊碑で、
碑文には、
「 寛永十七年庚辰
卍為諸善男諸善女 各靈
七月初七日 」
と彫られています。
碑文に「卍」なんて初めて見ましたが、
「吉祥の印」である卍を使うのは、
ごく自然なのかも知れません。
角櫓(すみやぐら)
まじ卍(笑)の碑文に感動したあとは、
角櫓を見学します。
復元された角櫓。
在りし日の写真付きなのが凄い!
お医者さんが撮影したそうで、
やはり相当なお金持ちでないと
高級機材のカメラなんて
所有出来なかったはずですから
貴重な写真と言えますね。
角櫓正面。
長塀
次の復元建築物は長塀。
やはり復元されていると
見た目で、昔の姿が頭に入ってきて
ありがたいものです。
これはいったい何だろう?
と思ったら案内がありました。
石落としです。
城外、お堀側からの写真で、
その構造がよくわかります。
石落としの近影。
ここがパカッと開いて
石を落とす構造になっていて、
戦国期、石垣をよじ登る敵兵には、
石だけでなく、う○こなどの
汚物も落としていたようです(笑)
多門櫓
長い櫓の事を多門櫓と呼ぶ場合が
多いのは、何故なんでしょうか?
とふっと疑問に思い、
Wikipediaで調べたら
こう書かれていました。
「多門とは長屋状の建物のことで、
明治以降に多聞と書かれることが
多くなったといわれる」
へ~そうだったんだ。
後付の名称はよくある事ですが、
江戸時代までは多門櫓なんて
あまり言われていなかったのですね。
多門櫓正面。
そして、この中には入れます。
ここにも人吉城のジオラマが。
鎧兜、甲冑なども展示。
この人吉には古墳も多く、
古くから生活の中心になっていたようです。
多門櫓のお堀側へ。
素晴らしい復元!
大手門櫓
多門櫓から続く石垣上には、
大手門櫓跡があります。
案内。
先程の多門櫓の右端の
石垣が大手門櫓の土台です。
大手門櫓の右側の石垣。
多門櫓側の石垣。
何故か、正面から撮影するのを
忘れていました(汗)
駐車場へ
人吉城は見どころが多すぎて
思った以上に時間がかかってしまいました。
妻から言わせると
「いつもの事でしょうが~!」です(笑)
武家屋敷の礎石を見ながら
駐車場の人吉城歴史館へと戻ります。
この時、既に時刻は午後5時前ながら
最後の目的地である
「神瀬の石灰洞窟と熊野座神社」へと
急ぎ・・・いえ安全運転で向かいます(笑)