茨城縣護國神社・御社殿
ほぼ忘れていた・・・
茨城縣護國神社には、
10年以上前、
一度参拝したことがあります。
その日はたまたま、
茨城県民の日(11月13日)で、
入場無料だった偕楽園の好文亭の
思い出だけが鮮明で、
同日参拝した護國神社自体のことは、
僕も妻もほぼ忘れていました(汗)
なので、
いい意味新鮮そのもので
参拝できたので、
これもまた良しとしておきましょう(笑)
参道
駐車場は参道入口のすぐ横なので、
利便性は抜群です。

社頭。
普通ならば神社の由緒がある位置に、
茨城県(水戸市)ならではの、
こんなものが掲示されています。

「桜田門外の変」
茨城県において、
水戸藩士の井伊直弼襲撃は、
「義挙」として顕彰されています。
案内を書き出すと以下になります。
「安政五年六月 大老井伊直弼は
無勅許で日米修好通商条約を調印した
すでに開港していた下田 箱館に加えて
将来 神奈川 長崎 新潟 兵庫を開港し
領事裁判権を承認した
別規定では関税の
自主権が認められないという
不平等条約であった
一方 将軍家定の病弱が伝えられると
十四代将軍に 英明な一橋慶喜を
擁立しようとする一橋派と
血縁の近い紀州の慶福を擁する
南紀派が対立した
家定の薨後 直弼は速断
慶福(家茂)を将軍職とした
徳川斉昭 尾張藩主徳川慶恕
越前藩主松平慶永は不時登城して
直弼の違勅調印を詰問したが
逆に謹慎を命ぜられた
加えて藩主慶篤は差控
一橋慶喜は隠居謹慎となり
処罰は一橋派の公卿 大名 志士に及び
安政の大獄といわれる大弾圧事件となった
越前の橋本左内 長州の吉田松陰
水戸藩においても安島帯刀が切腹
茅根伊予之助 鵜飼基地左衛門が獄門
鮎沢伊太夫が遠島に処せられた
朝廷からは水戸藩に対して
攘夷実現に努め
この趣旨を諸藩に伝えるようにという
勅書が伝達された
これを戌午の密勅という
藩内には密勅の返納に賛成する者もあり
藩内議論対立を誘引することになる
返納に反対する藩士は小金井
長岡などに屯集した
直弼の弾圧に危機感を抱いた高橋多一郎や
金子孫次郎らは薩摩の有志と連携し
江戸で直弼を襲撃する計画を立てた
大阪で幕政改革のために
挙兵することを計画し
高橋多一郎 庄左衛門父子を中心に
川崎孫四郎 山崎獵蔵 佐久良東雄
島男也らが挙兵の準備をしていた
万延元年三月三日 芝愛宕山に集結したのは
水戸脱藩浪士十七名と
薩摩の有村次右衛門であった
大雪の中十八名桜田門に向かった
現場での指揮は関鉄之介が担当し
斎藤監物が趣意書を認め差出役となった
一発の銃声のもと
森五六郎が正面から切り掛り
有村次次左衛門 稲田重蔵
広岡子之次郎らの手によって
直弼は討ち取られた
これを桜田門外の変と世にいう
この事件により幕府の権威は失墜し
衰亡を早めることになった
明治維新が樹立されたのは
桜田門外の変が起きてから
八年後の事であった
本年は明治維新百五十周年の年に当たり
護國神社に合祀されている十七烈士
(薩摩浪士一名は鹿児島縣護國神社に合祀)
の銘板を作り 記念に顕彰する
(中略)
平成三十年五月吉日 建立」
最後に「桜田烈士十八名」として、
記されている方の殆どは、
襲撃時に亡くなったり、
その後捕縛、処刑されていますが、
二人だけが明治以降も生きられています。
その中の一人、七十六歳で没した
海後磋磯之介宗親氏を
Wikipediaで調べると
なんと武田耕雲斎に従って、
天狗党の乱(変)にも参加し、
幕府側に捕縛されながらも
ここでもまた、
生き残っているのですよ!
降伏後、
300名以上もが敦賀で斬首された
あの天狗党の乱を生き抜くとは、
やはり天が与えた
「生き証人」としての使命を
帯びた方だったのでしょう・・

「護國神社の由来」
以下、抜粋・要約です。
「明治十一年常磐神社の境内に
「鎮霊社」として幕末より明治維新にかけて
国事に殉じた水戸藩関係の
御霊を御祭神として創祀された。
昭和十四年に至り、国の方針により
桜山の現在地に建設が決まり、
昭和十六年十一月新社殿が竣功し、
「茨城県護國神社」と改称した。
明治〜大東亜戦争までの戦没者、
六万三千余柱に及ぶ御霊を
御奉祀申し上げ現在に至る。」

改めて一の鳥居へ。

狛犬(阿形)

吽形のお目々がなんか可愛い(笑)

石段で上へ。

ここから手水舎までの参道左側には、
いくつかの石碑が建っています。

「征清記念碑」。
漢文で書かれていますので、
見るだけです(笑)

こちらは読み下し文ですが、
さらに容易に理解できる
僕向けの?案内があります。

「この碑は明治三十年四月即ち
日清戦争(明治二七〜二八年)の直後に
水戸常盤地内鎮霊社の傍に
茨城県人で日清戦争に従軍した将士が
国のために壮烈に戦い戦死又は
病に倒れた数百柱を合祀した際、
その名誉を後の世の人々に伝えようと
県を挙げて慰霊祭を執り行い
県で建てられたものであります。
碑文の概要は過去に神功皇后の三韓征伐、
豊臣秀吉の朝鮮征伐とあったが、
今度の日清戦争は
その比ではない大戦果であった。
戦が大きかっただけに、
我が軍の損害も多く茨城県だけでも
戦死、戦病死者が数百以上ある。
誰が国家のために
惜しまないものがあろうか。
茨城県人は古来から義勇心が強かったが
今度の戦役でも勇名を挙げた。
後世の人もこの話を聞いて
奮起することであろう。」

「丁丑殉節碑」。

以下案内の抜粋・要約です。
「この碑は明治十年(1877)
西南の役に従軍し、
凱旋した者が常盤村鎮霊社に
死者の魂を弔慰するために
建てたものである。
碑文は碑陰(裏側)の上段に刻まれてあり
中段、下段には従軍して凱旋し、
この碑の建立者と思われる六十二名の
氏名が刻まれています。
碑文は次のとおりであります。
明治十年春の西南の乱に
私達に勅命により従軍した。
始めに賊を熊本県下に撃った。
九月二十四日に至り
鹿児島県城山で勝利を得たが
戦いは数十回に及び
戦死者も多かった。
私達は幸い凱旋をすることができた。
直ちに常盤村の鎮霊社に碑を建て、
県命人見君に題字を願い
死者の魂を慰めるものである。
(注)この役において
三九七名が戦没している。」
戦前に多く建立されたのが「凱旋碑」的な、
生き残った人の石碑ですが、
これも時代背景を感じます。

「北征記功碑」。
こちらは日露戦争の戦勝記念碑です。

書き下し文。

僕向けの案内を抜粋。
「この碑は
明治三九年(1906)二月即ち
日露戦争(明治三七〜三八)の直後、
茨城県内の戦死、戦傷病死者千数百名の
慰霊祭を行い碑を建て戦況を叙し
その功績を永久に伝えようとして
県で建てたものであります。
碑文の概要は弘安の役(1274)では、
元軍を一挙に全滅した。
日露戦争では海陸大小数百の戦いに勝ち
世界を震撼させた。
これは上に神のように
賢い天皇陛下がおわしまし
下には賛襄の良民がおり
将士の忠勇義烈の心が
すぐれていたからである。
原稿は十万以下の兵力であったが
ロシヤ軍は百万以上で戦も大きく
偉大な功績も挙げ
弘安の役の比ではなかった。
茨城県の従軍軍人は
数万人海に陸に勇戦奮闘し
茨城男子の面目をあげ
皇国軍人の精華を発揮したが戦死、
戦病死者千数百人
その死にかたは違うが忠義の鬼である。
この碑を読む人は必ず感奮して
我が国の権威と力を大いにあげるだろう。」
先ほどの日清戦争は、
神功皇后や豊臣秀吉に比し、
日露戦争は元寇、弘安の役に比べる文言、
これもやはり「神国日本」を強調する
一つのフレーズだったのでしょう。
ただ、
この「日本は優等民族」とか、
「欧米列強何するものぞ!」
という戦勝気分、
驕り高ぶる政府と国民の心が
大東亜戦争(第二次大戦)での
軍民300万人以上が犠牲となり、
その数倍の人が傷つき、
国土は灰塵に帰してしまった悲劇を招く、
大きな要因でもあったと感じます。
今を生きる僕たちも
常に歴史に学び、謙虚な心を大切にし、
世の中をしっかりと見て、
行動していきたいものですね。

「大東亜戦争記念碑」
こちらは今上陛下御在位60年の年を機に、
昭和61年に建立されたもので、
先の大戦の経緯や、
茨城県民五万八千人が国難に殉じたこと、
そして現在(昭和61年)までの国と
茨城県民の歩みが刻まれています。

「あゝ特攻」と「顕彰碑」
以下、碑文の抜粋です。
「神風特別攻撃隊として
殉国散華された英霊を顕彰し
その鎮魂と 我が国の繁栄を誓い
世界平和の祈りを
末長く語り継ぐため
ここに 茨城県 特攻勇士像を建立する
平成三十年十月」

参道の赤い木が気に入った妻(笑)
手水舎
参道左の手水舎へ。

石積みは、切り込み接ぎ(笑)

清浄な水でお手水完了。
桜宮
ここから御社殿へ。

二の鳥居。

鳥居の向こう側に
赤い鳥居が見えています・・

幟がめくれて見えませんが、
「桜宮」とあります。

参拝。

鳥居の横にある「しあわせ石」。

「しあわせ石(なで石)」
以下、案内です。
「この石は、
桜宮の御祭神「木花咲耶姫」の
御神徳により願事を念じながら
両手で撫でることにより、
どんな事でも叶えられる
しあわせをもたらす石です」

木花咲耶姫は富士山の神様、
富士山と相思相愛の妻(笑)
願う対象としては、
これ以上の神様はありませんね!
御社殿
さらに参道を進みます。

護國神社定番配置の御社殿。

両翼殿と真ん中の拝殿、
この姿を見るとやっぱり
心が落ち着きます。

拝殿へ。

参拝。

高校生が描いた干支絵馬。
「百祥」、
GoogleのAIによれば、
「ひゃくしょう」と読み、
多くの幸、多様な吉兆という意味です。
吉祥の最上級みたいな感じかな?(笑)
今日の癒し
社務所の受付の菊花に
癒されました。

さり気なく置かれていますが、
護國神社の優しさが
溢れていますね!
(続く)