高館義経堂(岩手県平泉町)

 

手作りマップ

旅に出ると、有難いことに、

同じ地域のマップを

何種類か貰ったりします。

しかし一枚は使っても

その他の多くは

日の目を見る事なく

家の中で他の旅の思い出と共に

埋もれてしまっているのが現状です(汗)

ということで、

今回は一ノ関駅の手作りマップに

スポットを当て

高館義経堂たかだてぎけいどうを確認することにします。

このアナログ感に暖かさを感じますね!

赤丸で囲んだ義経義経堂の解説も、

景色にスポットを当てた優しい文章で、

実際に行った僕は

「うんうん、そうだよね!

確かに素晴らしい景色だったよ〜!」

そうマップに話しかけた位ですから(笑)

中尊寺〜高館義経堂

中尊寺を出たのが16時半前。

高館義経堂の営業時間には

間に合いませんが、

雰囲気を味わうだけでもと

行ってみることに。

東北本線沿いの道。

踏切を渡って道なりに右へ。

「高館義経堂入口」の案内で、

迷うことなく左折。

少し行くと駐車場がありますが、

僕たちは徒歩なので、スルー。

少し行くと左側に

「往古両軍戦死者供養塔」なるものを発見。

まずは、参拝。

往古(おうこ)ということは、

義経が亡くなった戦いのことでしょう・・・

沈む夕陽に照らされる供養塔。

朝日ではなく、夕陽があたる

この場所を選んで建てたのでしょうか?

悲劇のヒーロー義経と

それに関わった武士たちを弔うのに、

これ以上ないシチュエーションですね・・・

高館義経堂

中尊寺から約10分で

高館義経堂の拝観券発行所前に到着。

予定通り閉まっていますが、

お堂までの石段は閉鎖されず

自由に登れるようです。

「高館義経堂」

案内を書き出すと、

以下になります。

「ここ高館は、

義経最期の地として伝えられてきた。

藤原秀衡は、兄頼朝に追われ

逃れてきた義経を平泉にかくまう。

しかし秀衡の死後、

頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、

父の遺命に背いて義経を襲った。

文治五年(1189)関四月三十日、

一代の英雄義経は

ここに妻子を道連れに自刃した、

時に義経三十一歳。

吾妻鏡によると、義経は「衣河館ころもがわのたち」に

滞在していたところを襲われた。

今は「判官館はんがんだて」とも呼ばれるこの地は、

「衣河館」だったのだろうか。

ここには、天和三年(1683)

伊達綱村の建立した義経堂があり、

甲冑姿の義経の像が祀られている。

頂上からの眺望は随一で、

西に遠く奥州山脈、

眼下に北上川をへだてて

東に束稲たばしねの山なみが眺められる。

束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、

西行が山家集で

「ききもせず 束稲山の桜花

吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた、

また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が

「おくのほそ道」で詠んだ

「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」は、

この場所といわれている。」

ここで僕的には新たな知識、

「西行」さんが登場(笑)

岩手図書館のサイトで調べると、

西行さんは2度平泉を訪問しています。

その2度目の訪問について

以下サイトからの引用です。

「文治2年(1186)、西行69歳の頃、

東大寺再建のための砂金勧請に

秀衡を訪ねたときでした。

西行はその目的を果たし、

砂金450両が東大寺に送られましたが、

西行が平泉を後にした

翌年の文治3年(1187)、

頼朝の追っ手から逃れた義経が

平泉に入ったことが発覚すると、

鎌倉と平泉の対立は決定的となり、

送金は途絶えました。

奥州藤原氏が滅亡したその翌年、

西行は73歳の生涯を閉じます。

基衡・秀衡の

黄金時代の平泉を訪れた西行は、

衣川や束稲山の歌を

『山家集』に残しました。」

西行さん、凄い人ですよ!

鎌倉時代、69歳で

平泉まで行っているんですから。

西行さんの努力は死後報われて、

平泉を訪問した約10年後、

建久六年(1195)東大寺大仏殿は、

無事落慶しています。

石段を登り切ると

いきなり絶景が広がっています。

案内板に導かれ、

先に義経堂へと向かいます。

真っ直ぐ行くとお堂があるはず・・

途中見つけた石碑。

らい 三樹三郎みきさぶろう 詩碑(平泉詩)」

説明を要約すると、

「幕末の尊皇攘夷派の志士、

儒学者頼山陽の第三子。

勤王の志堅くそのため幕府に咎められ

一時盛岡に逃れた。

この詩は弘化二年(1848)

平泉を訪れたときに

「平泉落日」の感動を読んだもの。

三樹三郎はのちに安政の大獄で捕えられ、

翌六年、三十五歳で刑死した。

この詩の要約は、次のとおりである。

「小舟を仕立てて北上川を遡った、

藤原全盛がらの六百年は

一睡の夢の間である。

判官舘や衣川のたたずまい

義経と頼朝、平泉と鎌倉の悲しい間柄。

そして、いま三代百年の

豊土山川がいたずらに荒れはてて、

ただ義経主従の操立てのみが

悲しくよみがえる。

草木狐兎までが鎌倉になびいた

歴史の浮き沈みのはかなさ。

夕日の影は古塔のあたりにかげり落ちて、

ひとしお物寂しい。」

このようになります。

平安時代も鎌倉時代も江戸時代も

栄枯盛衰はいつの世も同じ・・

それが人というものなんですから・・

石段の上にお堂が見えてきました!

ここも閉鎖はされていません。

時間外なので扉は閉まっていますが、

参拝は自由にできるようで、

とにかく訪問してみたことは

大正解でした!

「八幡大明神」の扁額。

やはり源氏っぽい神様です(笑)

斜めからも撮影。

伊達綱村さんの建立から350年間、

火事にも雷にも遭わず、

よくぞ残ってくれたものです。

近年建てられた

源義経供養塔(宝篋印塔)に参拝。

宝篋印塔建立の銘。

義経堂からの風景

境内は絶景スポットでもあります。

ここで血生臭い戦いがあったとは

想像できないくらい

のどかで美しい・・

芭蕉もこれと同じ景色を見て、

あの有名な句を詠んだのでしょう・・

参道にあった案内板。

動画でも撮影。

芭蕉句碑

次に芭蕉句碑へ。

先に石祠に参拝。

そして振り返ると

芭蕉句碑が建っています。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」

ここに立って北上川を眺めると、

この俳句の素晴らしさを、

身に染みて感じます。

義経も弁慶も藤原氏も頼朝の、

みんな夢の跡・・ですね・・。

 

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