石橋山古戦場・文三堂(小田原市)

 

生き残る事こそ成功の源

源頼朝は、挙兵の黎明期、

石橋山の戦いで惨敗し、

岩屋の中に身を潜め、

敵の捜索に怯えていました。

捜索の手は岩屋までのび、

敵将、梶原景時に見つかったものの、

天の助けか、

景時は、頼朝を見逃し、

その後、船で房総に逃げ、

そこで兵力を蓄え、

平氏を滅ぼし、

鎌倉幕府を成立させました。

あきらめが早い人ならば、

絶望し、石橋山で自害したでしょう。

生き残ることこそ成功のみなもと

(源だけに・・笑)

かっこ悪くても生き残り、

僅かな可能性に賭けてみる。

それが吉と出るか否かは運命次第。

例え、会社で左遷されても、

解雇されても(笑)

生きてさえいれば、

人生いつ好転するやも知れません!

現代における生き方をも教えてくれる

意味深~い石橋山古戦場です。

駐車場

箱根湯本の早雲寺から

車で走ること20分、

メイン通りから外れ、

少し行くと、こんな案内が建っています。

「石橋山古戦場案内図」

文三堂も佐奈田霊社も

地図では簡単に行けそうですが、

さにあらず!

道幅がかなり細く、

対向車が来ない事を

神様に祈るしかない位なのです(汗)

祈りが通じたのか(笑)、

対向車に出会うこともなく、

石橋山古戦場巡りの起点、

佐奈田霊社の駐車場に到着。

ここから上に行けば、佐奈田霊社、

下って行くと、最初に目指す

「文三堂」へと繋がります。

広域戦闘図。

僕たちがいるのは

まさに「石橋山」の真っ只中(笑)

当時ならば討ち死に必至でしょう。

「源頼朝挙兵之地

石橋山古戦場」碑と相模湾。

ここ一帯が石橋山古戦場ですが、

見どころは大きく分けて二つ。

一つは「佐奈田霊社」

そして、もう一つが、

先ほど書いた「文三堂」です。

相模湾を左に見ながら文三堂へ。

僕たちが歩いたコース(赤線)

文三堂は白丸で囲ってみました。

途中のチェックポイント(笑)

佐奈田霊社で祀られている

佐奈田与一義忠が

討死した「ねじり畑」という場所です。

案内には、

「治承四年(1180)八月二十三日、

佐奈田与一義忠は、

敵の豪将俣野五郎景久を組み伏せたが、

駆けつけた敵方長尾新六に首を斬られ、

この地で討死にしたと伝えられる。」

このように記されています。

各所に道案内があるので、

迷う事無く前進。

「神奈川県指定史跡

石橋山のうち文三堂」

この案内に助けられ、

文三堂を確信(笑)

後ほど参拝した

佐奈田霊社の案内では、

ここは、先程のねじり畑で討死した

佐奈田与一義忠の家臣、

文三(豊三)家康(安)を

祀っていると書かれています。

恐らく下級武士であるが故に、

名前が確定していないのでしょう、

文三家康、豊三家康、

文三家安、豊三家安、

この4つの候補があるようですね。

それにしても「家康」とはビックリ!

まさか徳川家康は松平元康から

改名した時、文三家康の名が

頭をよぎった?

な~んてことは無いでしょうが(笑)

天保三年(1832)建立の石碑。

「佐奈田與一義忠郎等

文三○墓 山上アリ」

このように刻まれていますので、

ここは「お墓」と考えてOKでしょう。

石段の左右には仏像が配置され、

参拝者を迎えてくれます。

文久三年(1863)寄進の仏像。

文久三年・・略して「文三」

な~んちゃって(笑)

こちらは元治元年(1864)のもの。

お堂。

お堂内に建つお墓へ。

参拝。

安らかにお眠りください・・・

今日のふしぎ発見

文三堂に行く途中

路端で見つけたのが

こんな大石です。

刻印やくさびの跡もあるし、

お城の石垣に用いられたとしか

考えようがありません・・・

石垣を使った城と言えば、

この近くでは石垣山城です。

切り出したものの、

使われる事なく放置されたのかな?

ちょっと不思議な発見でした。

 

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