金毘羅神社(兵庫県朝来市)

 

バトンを繋ぐ

竹田城へ登るルート途上の

露払い的な位置づけで、

「ちょっと行ってみよう」という

軽い気持ちで参拝した金毘羅神社。

実際に参拝してみると、

露払いどころか、

横綱級に中身が濃い神社でした。

というのも、

御社殿自体の手入れもさることながら、

その周囲に残された江戸時代の

建造物・構造物からは、

当時この町を愛し、

大きな業績を現代に遺した偉人たちの

息吹がダイレクトに感じられるからです。

こうして、江戸の昔から今にバトンを繋ぐ、

住民の方々に心から感謝しかありません。

御社殿へ

蛭子神社のすぐ近くに

金毘羅神社は鎮座しています。

社頭。

鳥居の笠木に乗っかった竹田城(笑)

昭和初期に寄進された鳥居ですが、

「金比羅大権現」の神額は、

江戸時代からのものかも知れません。

(あくまでも推測)

対岸から撮影した参道の風景。

拝殿にて参拝。

小さいながらも手入れの行き届いた

御社殿やその周辺を見ると、

ついつい、

氏子さん達の愛情を感じてしまいます。

拝殿から廊下で繋がった本殿は、

覆屋の中で大切に守られ、

その姿は見られませんが、

老朽化防止対策としては、

間違いなく最高レベルでしょう。

石橋

金毘羅神社参拝前から

気になっていたのが、

こちらの石橋です。

竹田城が目的なのに、

まさかここで、

こんな古い石橋に

お目にかかれるなんて、

ラッキーだな~なんて思っていたら、

何と、詳しい案内板までが、

装備されているではないですか!

石橋(えびす橋)と、

絹屋溝(竹田川)の案内板。

案内によると、

竹田新町の若松屋平位久右衛門が、

1704年に石を材料にして

寄贈したものと伝えられ、

石橋の建立は、1739年。

また、

元々は但馬街道(生野街道)の

恵比寿神社前にあったものを

その後、1930年に

ここに架け替えられたと説明されています。

元文四年(1739年)の架橋標。

この橋が掛かる神社横の

透明感溢れた美しい川が、

「絹屋溝」(竹田川)です。

案内には、

1824年(文政七年)の大洪水を

きかっけに治水と防水を目的として、

絹屋治左衛門が私財を投げうて、

立案設計、整備を行った総延長

580mの用水路だと書かれています。

江戸時代、豪商などのお金持ちが、

民衆の為に私財を投げうって

土木事業をした話は、

僕たちが旅する先々で、

よく出くわすお話ですが、

ここにも素晴らしいお金持ちが

いらっしゃったのですね。

神社の対岸側から橋の袂を撮影。

こちらには、

案内板に書かれていた

石の寄進者である

「願主 若松屋平位久右衛門」と

刻まれた石碑があります。

よく見ると、

「南妙法蓮華経」の文字の下に、

久右衛門の名とともに、

「法名」としての名前も

刻まれていますので、

石の寄進から石橋の建立までの

35年間のうちに久右衛門さんは

亡くなっていたのかも知れません。

道すがら立ち寄った神社で、

地元の歴史を今に伝えてくれる

貴重な現役の石橋と、そこを流れる

江戸時代の「溝」に出会えるとは、

思いもよらなかった事。

竹田城の導きは、

凄いものがありますね(笑)

特急列車と神社

神社を去ろうとしたその時、

列車のやって来る音が近づいて来ました。

絹屋溝を渡る特急はまかぜ1号と

金毘羅神社と竹田城。

一日数本しか来ない特急で、

こんなショットが撮れるなんて、

なんてラッキーな(笑)

 

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