松本城(長野県松本市)中編
隠れた逸品
旅していると、
説明板や名前もないけれど、
実は歴史的に貴重なものを
発見することがあります。
今回の松本城の本丸御殿跡でも
そんな体験をしました。
それは、一基の燈籠です。
古い燈籠が気になる僕にとっては、
宝を探し当てたようなもの(笑)
以前訪問した時には、
全く気づきもしなかったのに、
新たなものが発見出来るのは
やはり再訪したからこそでしょう。
実は旅の計画段階では、
一度訪問したことのある松本城は
時間節約のため、
外から眺めるだけの予定でしたが、
どっぷり浸ったのは大正解でした(笑)
松本城保存の功労者
黒門を入るとすぐ右側には、
松本城保存の功労者を顕彰した
レリーフが見えてきます。
右が小林有也(うなり)氏。
「明治三十四年(1901)、
松本天守閣保存会を設立、
十一年にわたる修理の中心となり、
天守を倒壊の危機から救った。」
また左は、
市川量造(りょうぞう)氏で、
「競売された天守買い戻しに尽力し、
その保存に貢献した。」
このように書かれています。
明治維新で多くの天守はじめ
遺構が競売によって
風呂屋の薪などになったりしていますが、
松本城の場合、
このような方々がいたのは、
まさに幸運でしたね。
水野忠直奉献の燈籠
次に目に入ってきたのが、
冒頭に書いた宝物(笑)です。
燈籠の柱に刻まれている文字を読むと
「奉献・・・燈籠・・・
東叡山
嚴有院殿 尊前
延寳九年辛酉五月八日
信州松本城主
従五位隼人正水野忠直」
読めない部分もありますが、
おおまかには分かります。
東叡山とは上野寛永寺のことで、
家綱の霊廟でもあります。
嚴有院殿とは家綱の法号です。
(寛永寺のサイト調べ)
徳川家綱が亡くなった延宝八年の翌年、
延寳九年(1681)に
当時の松本藩主、水野忠直が
寄進した燈籠のようですが、
明治維新や第二次大戦の空襲で
寛永寺が荒廃した時、
ここに移されたのかな?
なんて推測しながら、
松本城のサイトで確認すると
やはりその通りで、
「東京・上野の寛永寺が
寺域を整理するに伴い
競売にかけたものを
松本出身の人が買い付け、
昭和28年10月21日に、
松本城へ寄付したものです。」
こう書かれています。
供養の為の燈籠も
競売なんですね・・・
季節外れの花
本丸の一角には藤棚があります。
この時期は葉っぱだけですが、
何と、花を見つけたのです!
こんな季節外れの藤の花、
きっと藤棚を大切に育てていた
妻のおばあちゃんが
見守りに来てくれたのでしょう。
そして、もう一つ・・・
ツツジの花まで咲いています!
妻とツツジと松本城天守の
スリーショット(笑)
天守内部
ようやく天守内部へ。
本丸側からの天守群。
左側から月見櫓、辰巳附櫓、
天守、乾小天守。
乾小天守前を通って、
天守へ向かいます。
この石垣は野面積みで、
角も算木積にはなっておらず、
戦国時代の名残が
しっかり見られます。
天守閣入口。
今は耐震診断の結果
一般客は入れませんが、
天守入ると右手に
乾小天守内部が見えます。
そして、天守一階を散策。
鯱真木(しゃちまき)。
「先端80cmは鯱の中に入っていた」
ということは、
鯱は屋根に載せられただけでなく
「根っこ」があるという事なのです。
初めて知りました。
鯱真木の先端が入っていた鯱。
雄が高さ127cm、
雌は124cmと案内されていますので、
半分以上に鯱真木が入っていたとすれば、
思いの外崩れ落ちにくかった事でしょう。
壁の構造。
案内によると
「天守の壁は、
各階とも外壁は塗りごめの「大壁」、
内壁は柱の見える「真壁」である」
「壁の厚さは1・2階で
28.8cm~29.4cmあり、
上の階ほど薄くなっているが
火縄銃の弾は通さない。」
このように書かれています。
天守の構造。
懸魚芯材。
「松本城天守の
千鳥破風と入母屋破風には、
「かぶら懸魚」を取り付けてある。
この懸魚芯材は
辰巳附櫓のものである。
材はヒノキで
創建当時のものと推定される。」
このように書かれています。
千鳥破風の部屋など
定番(笑)を見ながら
天守最上階へ。
まずは外の景色です。
こちらは南側。
西側。
北側。手前は乾小天守の屋根、
堀の向こうには松本神社が見えています。
東側。
本丸御殿跡が区画再現されています。
天守最上階見所三連発
ここで見逃してはいけないのが、
案内にある3つの見所です。
(1)二十六夜神
「元和三年(1617)松本に入封した
戸田氏が祀ったとされており
月齢26日の月を拝む信仰で、
松本城が火災等の災害に遭わず、
残っているのは二十六夜神の
お陰とされています。」
その二十六夜神は天井の高い場所・・・
お~見えた!(笑)
参拝。
こちらはより詳しい案内。
(2)桔木(はねぎ)構造
見ただけで普通とは違います!
「(前略)
天守最上階の重い屋根瓦の
軒先が下がらないように支えるため、
テコの原理を使った装置です。(後略)」
こんな細部にも
神経が行き届いていたからこそ
400年以上もそのままの姿を
残しているのでしょう。
(3)設計変更された勾欄
「設計では六階の外周に
勾欄がつくはずでした。
しかし、信州の寒さ対策、
風雨、風雪策等
上から壁を勾欄の位置まで出して
六階が作られたといわれています。」
このように書かれています。
確かに構造がそんな感じですね!
松本城、なかなか見終わりません(笑)
この後階段を下り、
辰巳附櫓、月見櫓へと向かいます。
(後編に続く)