永山城(大分県日田市)

 

熊本地震からの復活

今から約4年前の2016年4月、

熊本地震が発生しました。

ニュースでも頻繁に取り上げられた

熊本城の大被害をはじめ、

阿蘇神社の楼門の倒壊など

熊本市内周辺の被害は

衆目の一致する所ではありますが、

北部九州を旅すると、

「こんな所まで被害があったのか・・」

という「隠れ被害」に多々出くわします。

そんな世間の人はあまり知らない、

大きな被害一つが、

大分県日田市の

石垣崩落などの崩落があった

永山城周辺建造物の破壊でした。

地震発生以降、3年以上にわたり

城域は立ち入りが制限されていましたが、

地元の方々の思いが通じ、

ようやく崩落した石垣の復元も完了し、

昨秋から再公開されました。

「やっと永山城に行けるぞ!」

そう思っていたところ、

丁度、筑前町の

藁の宇宙戦艦ヤマト」を

知った時期と重なったのもあり

躊躇なく(笑)

今回の訪問となったのです。

永山城へ

日田市観光といえば、

「豆田(まめだ)町」というほど、

豆田町という地域が、

有名な観光地となっています。

その町の南北二箇所には、

無料駐車場があり、

観光客にとっては重宝します。

その北側の駐車場が、

都合の良い事に、永山城の麓、

すぐ傍にあるので、

これまたダブルで重宝(笑)。

ここに駐車。

駐車場の案内版。

上の緑色の所が永山城で、

その下、川を挟んだ町並みが

豆田町です。

東側の石垣に沿って、

正面へ歩きます。

東南角。

堀と石垣。

石垣に作られた水門は、

今も現役のようですね。

西南側の石垣。

正面入口。

ここから攻め上がります(笑)

このあたりは「月隈公園」として

整備されています。

「大分県史跡永山城跡と

平成28年熊本地震」

この案内板を読むと、

永山城の復活が奇跡に

近いものであったのが分かります。

それは、地震発生の

わずか2ヶ月ほど前に、

永山城は歴史的価値が高いものとして

大分県史跡に指定されていたからです。

もし・・・

史跡指定がなければ、

「旧状を極力再現する」という

工法ではなく

応急的な復元とかで、

今の姿は無かったかも知れません。

そういった意味でもこの永山城は、

幸運のお城と言えるでしょう。

ここから既に

本丸の石垣が見えていて、

逸る気持ちを抑えるのに一苦労(笑)

登城路は月隈神社の

参道を兼ねていますので、

灯籠なども見えますが、

やはりここで驚くのは、

城壁に横穴が沢山あいている事です。

古墳時代の横穴古墳が、

壁一面に掘られています。

倒壊した灯籠は、

丁寧に修復されていて、

見事な仕事ぶりですね。

この一本石の灯籠の

正面には、「月隈神」

側面には、

「時文政三辰年

以日田殿橋余石建之」

と刻まれているようです。

文政三年は西暦では1820年、

今から丁度200年前の建立です。

そして、

日田殿橋ってどこなんだ?と思い、

ネットで調べてみたのですが、

確定的なものは、

出てきませんでしたが、

「日田殿」という言葉はありました。

相撲道の神様と言われた

日田出身の大蔵永季という方が

「日田殿」と呼ばれていて、

平安時代に活躍した力士という事です。

日田の北部にそのお墓があり、

戦前戦後に活躍した、

横綱の羽黒山が、現役時代に、

参拝した記念碑まであります。

この「日田殿」と「日田殿橋」は

関係があるか無いかは別として、

そんなところならば、

日田殿の墓、行くしかないでしょう(笑)

修復された灯籠。

火袋から上は全て新しいものに

取り替えられていますが、

こうして、古いものを残して

後世に伝える精神に感服です。

安政二年(1855年)の寄進。

鳥居も継ぎ接ぎながらも

古い柱を大切に使い

修復されています。

文化三年(1806年)の寄進です。

安易に建て替えるのではなく、

残せるものは残す・・・。

そんな対応を

全ての神社に望むのは、

難しいとは思いますが、

ここが大分県史跡の指定だったから

このような措置も受けられたのでしょう。

やはりこの鳥居も石垣と同じく、

「奇跡の鳥居」かも知れませんね。

横穴を横目に(笑)登城。

このあたりから「稲荷大明神」の

幟が増えます。

横穴式古墳の前にある石碑。

帰安碑(きあんひ)の案内。

案内には、

「文化十五年(1818年)春、

咸宜園塾主、広瀬淡窓は、

日田代官塩谷正義に召され

「帰安碑」の碑文を撰するように

命ぜられた。」

「これは永山城址を整備した時、

人夫に横穴を掘らせたところ

人骨が散乱しており、

それを集め山の下に改葬し、

その上に建てられたのが帰安碑である」

「淡窓は漢文でこの経緯を記した後に

人骨への弔意の詞を述べて

文化十五戊寅四月 丙辰

広瀬簡誌とした」

このように書かれていて、

この時代、広瀬淡窓は、

代官にも一目置かれる、

著名な文化人だった事が分かります。

石垣

帰安碑から少し登ると、

いきなり石垣が迫って来ます。

遂に到着です。

よくぞここまで修復したものです!

川石を使った貴重な石垣が、

完全復活していますね!

アップでも撮影。

素人目ではありますが、

現代的な安っぽさが無く、

出来栄えは完璧ではないでしょうか。

工事を遂行した方々の

気持ちがひしひしと伝わって来ます。

正面から。

右半分が崩落した部分ですが、

ここから見ても素晴らしい仕上がりです。

豆田町を背景にしてもう一枚。

本丸へ。

本丸広場に入ると、

目に飛び込んでくるのが、

背の高いもみの木です。

早速、妻との大きさ比較を実行(笑)

次に石垣の上から、

豆田町の眺めを堪能。

同じく石垣の上から見た、

月隈神社の境内。

天守台へ。

天守台の石垣。

ここも川石で造られていますね。

さらに天守台下部分の石垣。

天守台正面。

本丸には礎石らしきものが、

幾つも残っています。

最後に復活した石垣を背景に

ツーショットで、〆。

次は、石垣の目の前に鎮座する、

月隈神社への参拝です。

 

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