名古屋城(名古屋市)前編
8年ぶり&初登城
名古屋城の清須櫓を
お堀の外から眺めるだけ。
そんな予定だったのに、
妻が天守を見てテンションがあがり、
予想外の名古屋城本丸訪問へ(笑)
名古屋城内に入るのは、
僕は8年ぶり、妻は初めてです。
以前僕が来たとき、
お城への興味はそれほどでもなく、
「有名だから名古屋城に
行ってみよう・・・」くらいの
軽い気持ちだった気がします。
なので、
今回はお城好きになってからは
僕も「初登城」。
以前来た時とは、視点が全く違い、
見るものすべてが新鮮で、
キラキラ輝いて見えました(笑)
40分が100分に
こちらはパンフレットの案内図。
正門から入って、西南隅櫓、
天守を空掘手前から眺め、
御深井丸の
西北隅櫓(清須櫓)を巡り、
表二之門から本丸を
当初は40分間で
巡る予定を組んだのですが、
実際に滞在したのは、
トータル100分(汗)
本丸御殿内はカットしたにも関わらず、
それでも、
清正石、巨大枡形、
南蛮塀など、見落としもあって、
次回訪問の
口実になりそうな気配です(笑)
正門から城内へ。
金鯱とともに
城内に入るとすぐ左側にあるのが
名古屋城のシンボル、
金鯱のレプリカです。
実はこれ、写真屋さんの
商売道具でもあります(笑)
夫婦や恋人同士っぽい人を見つけては、
「撮影は無料です!
どうぞこちらへ!」
そう呼び込んでいて、
その吸引力に、ついつい、
僕たちも撮ってもらいました。
撮影後、
写真をプリントしたものと
データで1200円(だったか?)、
データのみで300円と言われ、
それならばとデータのみをいただく事に。
ハガキサイズより
一回り小さい用紙に、
ツーショット写真と名古屋城、
データ収得の案内が掲載されています。
30回までダウンロード可能ですが、
1回あれば十分かな(笑)
こちらがダウンロードした画像です。
実に素晴らしい出来栄えじゃないですか!
お城専属?カメラマンさんのお陰で、
名古屋城に入った途端、
素敵な思い出が出来ました。
西南隅櫓(坤櫓)
城内を少し歩くと見えてくるのが、
西南隅櫓、
江戸時代の名称は、
「坤(ひつじさる)櫓」。
石垣の端っこの算木積みは完成の域で、
積み方は、切込み接ぎと
打込み接ぎのミックスでしょうか。
案内を要約すると
「慶長十七年(1612)頃に建てられ、
坤櫓と呼ばれた。
外観二重、内部三階建ての
珍しい形態である。
櫓は明治後期から大正期ごろに、
自然災害で倒壊したが、
大正十二年(1923)、
宮内省により、
古材を用いて再建された。
鬼瓦に菊紋が見られるのは
そのためである。」
このようになります。
菊紋があしらわれたお城といえば、
やはり一時期皇室の所管であった
二条城の二の丸御殿を思い出します。
訪問は4年近く前の事なので、
妻は忘れているかな?(笑)
西南隅櫓から
天守を望む。
鵜の首
天守に向かって歩いていると、
左側に見えて来るのが
「鵜の首」と呼ばれる、
こちらの入り江です。
案内によると
「鵜の首とは、
堀を内部に入れ込み
道幅を狭くした部分。
本丸の周囲には、大手、搦手など
五か所に鵜の首があり、
本丸への敵の侵入をはばんでいた。」
このように書かれています。
天守と石垣
次に天守前へ。
本丸から堀を挟んで、
外側からの天守。
天守から西南隅櫓を動画で撮影。
さらに近づくと、
加藤清正が作った石垣が
よくわかります。
扇の勾配が素晴らしく、
同じく清正が建てた「熊本城」とは、
兄弟的な石垣とでも言えそうですね。
石自体には、すだれ仕上げや、
はつり仕上げなどで
化粧されたものもあり
やはり徳川の城だけあって、
手が込んでいます。
刻印もた~くさん。
まじ卍(笑)
はつり仕上げにも刻印が。
移設されたオリジナルの礎石と天守。
石棺式石室
何故か礎石の横には
名古屋城とは無関係な
石棺式石室というものがあります。
案内には、
島根県松江市山代町にあった
団原古墳の石室と書かれています。
民間人の寄贈のようですが、
ここに何故あるのかは謎のまま・・・
清須櫓(北西隅櫓)
やっと来ました、清須櫓。
名古屋城の北西隅櫓は、
(徳川家)清州城の天守を
移築したものと伝わります。
城内の案内には、
「実際に昭和39年の
解体修理で、
元和五年(1619)頃
造営されたことが明らかになり
その可能性は高まった」
このように書かれていますので、
清州城の移築と信じましょう(笑)
どアップ。
対岸から見た清須櫓。
乃木倉庫
明治維新後、
大城郭の多くは、陸軍の鎮台となり、
名古屋城もその一つでした。
その当時の遺構が、
乃木倉庫と呼ばれる、弾薬庫です。
明治期の建物ですが、
櫓っぽく見えるような(笑)
案内を要約すると、
「乃木希典が
名古屋鎮台に在住していた
明治初期に建てられたと伝えられ、
だれいうことなく「乃木倉庫」と
呼ぶようになった。
昭和20年5月14日の
名古屋空襲の際、
天守閣、御殿等が焼失したが、
本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を
ここに保管していたため難を逃れた。」
このようになります。
ここまでで、既に予定していた
40分が経過・・・
まだまだ本丸には辿り着けません(笑)
(後編へ続く)