にほんまつ城報館(二本松市)中編

 

未来を開く鍵

関ケ原の戦いで、家康と敵対し、

西軍に味方した武将の末路は、

死罪、改易(お家取り潰し)島流しなど

過酷なものばかり・・・。

後年、白河藩十万石の

藩主となった丹羽長重も、

その時、

改易されてしまった一人です。

関ケ原の戦い後、改易された大名で、

「無」から10万石まで復活したのは、

柳川藩立花宗茂と、

丹羽長重の二人ですが、

この二人の共通点は、

関ケ原の戦いの前哨戦で、

局地的に東軍に勝利している事。

また、文化人としても優れ、

改易後程なくして、

その才を見込まれ、

二代将軍秀忠の御伽衆になっている事。

そして、大名復活後、

家は明治維新まで続いている事。

やはり、文武を極め、

自分を信じ、周囲を信じ、

どんな時でも、

全身全霊で事に当たることが、

敵側にも称賛され、尊敬を受け、

あるいは重宝がられ、

引いては愛され、

未来を開く鍵なのかも知れませんね。

天下統一と丹羽家

ここから、丹羽家のお話が始まります。

丹羽家の家紋はX。

この家紋、いつ見ても

テンション上がりますよ!

但し、

「エックス」ではありません(笑)

以下解説です。

「直違紋(すじかいもん)

または「丹羽直違紋」のほか、

単に「違い棒」とも呼ばれます。

その由来は諸説あり、

もとは桔梗紋であったのが、

長秀の頃に直違紋とされたようです。」

解説の下には、

由来が三つ記されています。

ジェットコースターのような、

丹羽家石高の乱高下。

「123万石」と「0石」が、

実にいいコントラストです(笑)

長重の父、長秀は織田信長の家臣で、

本能寺の変後、

実質秀吉の家臣となり活躍、

その後の丹羽家は、

ジェットコースターの最上段に登り、

またそこから

秀吉の一存で、奈落に落とされ、

関ケ原の戦い後は改易されるも

最終的には二本松藩主となっています。

丹羽長秀(右)丹羽長重(左)肖像画。

初代藩主・丹羽光重

次のコーナーは、

二本松の基礎を築いた、

長重の子、光重を

大フューチャーしています。

二本松藩歴代藩主。

白河藩から、二本松藩へ転封となり、

二本松藩の初代となったのが光重で、

「光」の名前の通り、徳川の世は、

三代将軍家光の時代となっていました。

城と城下町。

二本松藩の誕生。

「1643(寛永20)年、

丹羽家は白河より

二本松に国替えとなり、

安達郡69ヶ村と安積郡41ヶ村の

合計110ヶ村からなる

10万700石の二本松藩が誕生します。

丹羽家は二本松城主となってからも

白河時代と同様に、

参勤交代の際は伊達、上杉、佐竹らが

城下を通過したことを見届ける

重要な役割を担っていました。」

外様大名の監視役として、

幕府からの信任が厚かったという

事なんでしょうが、

丹羽家も外様、

しかも関ケ原では敵側だったのに、

そこまでの信頼関係を築いていたとは、

長重・光重の人間力に脱帽です。

領地図。

猪苗代湖の一部も入っています。

「名君 光重の人物像」

「光重は、江戸で長重の三男として誕生、

わずか16歳で家督を相続し、

6年後の1643(寛永20)年、

白河藩主より

同高10万700石で

初代二本松藩主として入府しました。

藩政の基礎を定める一方、

城内の修改築や城下町の整備を断行し、

現市街地の原形を築きました。」

「怒れる光重」

ここでは、

赤穂浪士の討ち入りに関しての

エピソードが紹介されています。

「老齢で病床に伏せる丹羽光重のもとに、

江戸で起きた

松の廊下事件の報せが届きます。

報せを聞いた光重は激怒し、

煙草盆に煙管を叩きつけたと

いわれています。

事件を起こした浅野内匠頭長矩の祖母は

光重の実姉であるため、

遠縁の浅野家の行く末と丹羽家に

類縁が及ぶことを心配したのかと思いきや、

原因はそれだけではなかったようです。」

このように書かれ、

光重が煙管を叩きつけた跡が残る、

煙草盆の実物が展示されています。

確かに凹んでいますね!

「(刃傷沙汰が)

未遂に終わったことを聞いた光重は、

枕元のキセルを手にし

「なぜ切りつけたのか、

なぜ突かなかったのか。

突けば思いを遂げることができたものを」と

無念と口惜しさから灰入れを思い切り

叩いたという。

光重は翌月4月11日に逝去、

翌年12月に赤穂義士が吉良邸に討ち入り、

本懐を遂げたことを知る由もなかった。」

また、パネルには、

「丹羽家に受け継がれてきた剣術は

「突き」を重んじるものであるから

このような言葉が出たのかも」

こんな内容も記されています。

「楽しむ光重」

「丹羽光重は、家臣である大谷家の長男、

亀松少年をたいそう気に入り、

周囲の大人たちはこれに配慮し、

当時9歳だった

亀松少年の主宰という名目で宴を開きます。

光重は大いに喜び、宴の様子を

描かせたのが

「大谷亀松亭主光重公遊宴之図」です。」

これは・・

推定ですが、

亀松少年は光重の寵童でしょう。

江戸時代前期までは珍しくもない

日本の伝統的習慣ですが、

ここで紹介しているのは、

二本松歴史館さんの「英断」かも?(笑)

「城下町の姿変わる」

光重の時代に、

それまでの城下町を大幅に整備し、

それが現在の二本松市街地の

基礎となったと書かれています。

「街道・宿駅の整備」

「奥州街道を付け替え、

藩内の宿駅を整備したことで、

一層の活気を呼び込みました。」

追手門の普請。

城下町の整備で、

見逃してはいけないのが、

光重さんが案内してくれる

樹下町の変遷、

プロジェクションマッピングです。

最初はしょぼい(笑)

会津藩時の二本松城周辺。

会津藩、蒲生さんも頑張って拡張!

会津藩時代後期。

奥州街道はお城の真下を通っています。

これを光重さんは、大変革。

奥州街道は付け替えられ、

町も大きくなり、

現在の地図にそっくりです。

(続く)

 

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