にほんまつ城報館(二本松市)後編
音の思い出
にほんまつ城報館の有料ゾーン、
二本松歴史館の規模は、
比較的コンパクトですが、
二本松の町と、
藩主丹羽家への愛が詰まり、
展示ごとに、
視覚・聴覚を最大限に駆使し、
全く侮れません(笑)
中でも心に響いたのが、
「音」の演出で、
僕と妻の胸の中には、
山形県護国神社の賽銭箱以来の
「音の思い出」が刻まれています。
タライの使命
事件が起きたのは(笑)
こちらのゾーンです。
グリーンを基調とした部屋へ。
ここに入って少し歩くと
突然聞こえてきたのが、
「ポッチャン」という
水滴が水面に落ちる音!
ハッとして振り返ると、
何の説明もないタライが
一つ置いてあり、
思わず覗き込むと・・
映像とは思えないほどの
リアル水滴です!
へ〜水路か〜と思いつつ、
僕たち二人はタライに首ったけ(笑)
そして「水神」の石碑が・・・
いや〜これには参りましたよ!
絶妙なタイミングで
耳から導入されるこの部屋の案内、
僕も妻も感動しきりです。
「タライ」の使命は、
二本松藩初代藩主、光重公が、
幕府に内緒で造ったという、
「二合田用水」と呼ばれる
全長18Kmにも及ぶ用水路の紹介に
訪問者の目を向かせること。
無論、僕たちの心はひきこまれ
タライさんは見事に
その重積を果たすどころか、
感動のオマケまで
付けてくれています(笑)
学問関係。
ここでの注目は、
藩儒学者の岩井田昨非の進言により、
丹羽家七代(二本松藩五代)丹羽高寛が
民を重んじる藩訓として設置した、
「戒石銘碑」(かいせきめい日)です。
原文は漢文なので、大意を記すと
以下になります。
「お前がお上から戴く俸禄は、
民の汗と脂の結晶である。
下々の民は虐げ易いけれども、
神をあざむくことはできない。」
この石碑は、
今から300年近くも前、
寛延二年(1749)の建立です。
スローガンは目に付く所に貼るのが、
効果的と言いますので、
お城の入り口に設置された石碑の前を
毎日通る藩士達の心には
きっと刻まれた事でしょう。
藩校「敬学館」を創設した
八代藩主、丹羽長富公。
郡山市デジタルアーカイブによると
江戸の昌平坂学問所教授を務めた
二本松藩、安積国造神社の宮司、
安積艮斎(あさかごんさい)も
敬学館で教えているんですね!
吉田松陰、岩崎弥太郎、
高杉晋作、小栗忠順らも
学んだほどの偉い人が、
ここで教鞭を取っていたとは、
二本松藩の教育にかける情熱、
ひしひしと感じます。
ちなみに安積艮斎は、
稀に見る褒め上手な人だったそうで、
「褒めて伸ばす」タイプの
教え方をしたのかも知れません。
「藩校「敬学館」の発見」
箕輪門近くで発見された建造物には、
「灯明具」が大量に発見された事で、
ここが藩校「敬学館」の跡だと、
わかったそうです。
戊辰戦争
ここからは悲しい歴史、
戊辰戦争へと向かいます・・
「城の終焉
近代化の波と二本松」
幕末トンネルへ・・
二本松藩にとっての幕末を
象徴するような
薄暗いトンネルの演出、
見事としか言いようがありませんね!
戊辰戦争の足音が
聞こえて来るような・・・
江戸無血開城〜会津戦争。
二本松藩は、
奥羽越列藩同盟として戦い、
新政府軍の会津藩攻略の前哨戦で、
大きな傷を負って降伏しています。
二本松藩と戊辰戦争。
二本松藩を含め、
東北諸藩の多くは旧幕府側として戦うも、
新政府軍に内通・恭順するものなど
各藩の置かれた立場は違い、
結局、奥羽越列藩同盟は瓦解し、
新政府軍の勝利となり、
現在の秩序に繋がっています。
「勝てば官軍負ければ賊軍」、
人間界の掟ですね・・・
二本松城下の戦況図と展示。
「夫れ降るも亡び
降らざるも亦亡ぶ
亡ぶは一のみ
寧ろ死を出して信を守に若かず」
(家老 丹羽一学(富穀)の言葉)
新政府軍に恭順した諸藩の例を見ても
降伏=休戦・安心ではなく、
降伏=新たな戦いと苦しみの始まり
でもあったのですから
戊辰戦争の悲劇は、
この言葉に尽きます・・・
二本松少年隊。
二本松藩に隣接する三春藩が、
新政府軍に恭順したため、
白河口方面に展開していた
主力と城が分断され、
城に残った老人や子供で
戦う羽目になったのが、
少年隊結成の理由の一つのようです。
「二本松少年隊 隊士一覧」
十三歳、十四歳の子供が、
何人も「戦死」しています・・・
会津の白虎隊よりも年下ですね・・・
ここで、
二本松少年隊の映像を見て、
しばし涙・・
スクリーンの横に鉄砲体験がありますが、
少年隊の映像を見た直後で、
僕も妻もおどける気分にはなれず・・・
「藩士の転職と二本松藩の降伏」
「二本松城が落城した後も藩士たちは
戦い続けますが、
8月21日会津藩領の
母成峠の戦いへの出陣を最後に、
二本松藩としての戦いは
終わりを告げます。
米沢での避難生活を
余儀なくされていた藩主丹羽長国は、
9月11日に降伏の嘆願書を提出し、
正式に二本松藩は降伏しました。
奥羽越列藩同盟への信義を貫いて
誇りを捨てずに戦い、
10万700石の二本松藩は滅びました。」
こちらは旅の最初に訪問した、
母成峠の慰霊碑です。
裏面には、
二本松藩の戦死者8人のお名前も
刻まれていました・・・
「人々に開かれた二本松城」
「明治になり二本松城跡には
製糸工場が建てられ繁栄したが、
その後、関東大震災の影響で倒産し、
町有化された。」
城跡に製糸工場とは、
珍しいですが、
平坦地の曲輪を利用できて、
立地としては良かったのかな?
「現在の二本松城」。
ここまでで歴史館の見学は完了し、
二本松城へと向かいます。