岡山城(令和5年3月)内覧編(3)

 

切り口

「関ケ原の戦い」。

ここにスポットをあてて、

岡山城に関わる城主を紹介したのが、

3階に配置された、

「それぞれの関ケ原」という展示です。

日本人の大部分が知っている(多分)

「ビッグネーム」を展示の「切り口」にすれば、

多くの人の興味をそそるはずですからね!

僕もその一人として、

そそられて参りました(笑)

3F それぞれの関ケ原(その2)

宇喜多さんの関ケ原に続き、

小早川秀秋の関ケ原です。

松尾山に西軍として陣を敷き、

その後、東軍に寝返り、

大谷吉継隊などを壊滅させるなど

東軍勝利への大きな功績により、

岡山城主となった人ですが、

常に「裏切り者」として

扱われているので、

ちょっと可愛そうな人でもあります。

いきなり秀秋さんの

「違い鎌の赤マント」に

テンション上がりまくり!(笑)

展示を考えた人も

きっと僕たちと同じ波長なのでしょう(笑)

やっぱりカッコいい!

秀秋さんのイメージからは

想像もつかない、勇ましいマントは

いったい誰がデザインしたのかな?

秀秋さんが関ケ原で着けていた実物は

東京の国立博物館に

国指定重要文化財として

保管されているので、

いつかは見てみたいものです。

皆がよく知る関ケ原の経緯など。

ギリギリで寝返った

(ように見せた?)ことで、

なんか「裏切り者」みたいに

言われていますが、

それは「家」を残す為の術を

最大限行使したものへとして、

少し酷な評価かも知れません。

そして、

展示の「小早川秀秋と備中足守藩」

写真の「道中風呂」が、

豪華絢爛ですね!

これに付随する磯田さんの解説が、

こちらです。

「小早川秀秋と「豊臣遺産」」

「豊臣家は完全に消滅したのでしょうか?

違います、

豊臣家は密かに岡山の地にも

遺っていました。

備中足守藩の木下家がそうです。

この家は秀吉の妻・北政所の

家族が大名になった家です。

表向きには秀吉が

藤吉郎時代に名乗っていた

木下の苗字です。

しかし徳川時代も終わりに近づくと、

目立たぬところでは、

ちょいちょい「豊臣姓」を

使っていたふしもあります。

ですから岡山足守の木下家には、

秀吉や北政所ゆかりの品々が多く

残されていました。

秀吉の関白叙任状や

北政所が使ったという豪華な金蒔絵の

道中風呂(ポータブル風呂桶)なども

あったのです。

この「豊臣遺産」の中に、

岡山城主となった秀秋(当時は秀詮)が、

北政所に借金を申し込んだ

書状もありました。

徳川家康の東軍についた秀秋。

しかし、関ケ原の戦い後も、

北政所は実の甥・秀秋の行く末を

気にかけていました。」

このように紹介されています。

木下(豊臣)家は大分県にも

足守藩主・木下家定の三男、

木下延俊を祖とする

日出藩」として遺っていますので、

秀吉の血は途絶えても

「家」としては続いたという事でしょう。

秀吉の養子に。

「秀吉に翻弄された生涯」

案内を抜粋すると

以下になります。

「小早川秀秋は、

のちに初代備中足守藩主となる

木下家定の5男として生まれました。

父・家定の妹は、

豊臣秀吉の正室・北政所

(ねね・高台院)でした。

秀秋は幼くして秀吉の養子となると、

7歳で元服。

翌年丹波亀山城主となりました。

秀吉の後継者の一人とされた秀秋ですが、

秀吉の実子・豊臣秀頼が誕生すると、

小早川隆景のところに

養子に出されてしまいました。」

7歳で元服とは、

7歳で「大人」となったということ。

イコール、アルコール解禁(汗)

Wikipediaには、

「12歳でアルコール依存症」と

書かれています・・・

秀吉後継者として、

7歳から接待漬けだったのでしょう(汗)

やはり、

「秀吉に翻弄された生涯」

間違いありません・・・。

家系図。

「小早川秀秋、岡山城主になる」

わずか2年間でしたが、

それなりに頑張ったようです。

次に、

池田輝政の関ケ原へ。

池田家のイメージカラーは「青」で統一。

ここでも磯田さんの解説が

冴えています。

この薀蓄、ちょっと怖くて凄いです(笑)

「男女で力を合わせ、手柄を高める」

案内を書き出すと、

以下になります。

「石田三成家臣の娘「おあん」が語った

「おあん物語」には、

<(味方が)とった首を天守に集め>

<それぞれに札をつけ>

<くびに、おはぐろを付>けた、という逸話があります。

当時のお歯黒は身分の高い武将の証で、

女性たちは生首に化粧をすることで、

主人の手柄を大きくみせていました。」

男女共同参画事業の

先駆け的な逸話ですね。

この時代、

生首なんて生魚を見るくらい

日常的な出来事だったのかな?(笑)

「それぞれの関ケ原 池田輝政

家康の娘婿、東軍勝利への糸口を切り拓く」

この年表での注目は以下です。

【1584 】

池田輝政、小牧・長久手の戦いで

父と兄を失い、池田家を継ぐ。

【1594 】

池田輝政、豊臣秀吉の仲介で、

徳川家康の娘・督姫と結婚。

長男・利隆の母・糸姫は実家に戻る。

督姫さんは、

「どうする家康」でカミングアウトした

西郡局と家康の娘で、

北条氏直の正室だった人。

なんか、秀吉さん

「やらんでいい事をやっちまった」

そう感じますね。

何で仲介したのでしょう?

家康の有能なブレーンが

増えるというのに・・・

磯田さんの解説。

「毛利ストッパー」

案内を抜粋・要約すると

以下になります。

「関ケ原の勝敗を決めたのは、

小早川秀秋の決断とされます。

でも実は、もう一つ要因があります。

毛利軍が家康軍の

背後の山上にいたのに

攻め降りてこなかったのも大きいのです。

このストッパーを任されたのが家康の婿、

池田輝政です。

実際に毛利軍は動かず、

輝政の子孫はこの功績により

「姫路→鳥取→岡山」と、

外様大名の中でも

比較的京都に近い国を貰っています。」

兜には蝶々があしらわれ、

ちょっと可愛いかも?(笑)

「池田家岡山へ。」

「岡山城と城下町のできあがり」

池田輝政の嫡男、利隆の時代から

忠継、忠雄の時代を経て、

岡山城が完成の域へ。

名君と呼ばれる池田光政さんの話。

「岡山城主・池田光政の初しごと」

後半を書き出すと、

「ここで紹介する絵図は、

光政が家臣の屋敷割りに使ったものです。

前城主、池田忠雄の家臣名の上や横に、

光政の家臣名が貼り付けられています。」

付箋もなかったころ、

気軽に貼ったり外したりできないので、

ちょっと大変だったかもですね。

(続く)

 

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