2019/09/18

大徳寺の大クス(長崎県長崎市)

 

お寺の名前だけ残った

名前は「大徳寺の大クス」でも、

実際に大徳寺というお寺はありません。

明治初期の神仏分離により、

廃仏毀釈で、本堂はじめ伽藍は、

全て壊され、

お寺自体は廃寺になったようで、

今現在は大徳寺公園として、

市民の憩いの場に変わっています。

大クスへ

丸山公園のすぐ上の丘に

大徳寺の大クスはあります。

この狭い路地が、

楠稲荷神社の参道です。

大クスから楠稲荷神社という

神社名が付けられたのでしょう。

石鳥居の神額には、

「楠神社」と刻まれていますね。

横参道から見上げた神社境内と大クス。

拝殿、本殿の後ろに、

大クスがそびえています。

参拝。

本殿。

本殿横をすり抜けて、大クスへ。

今まで見た巨樹のなかでも

トップクラスと言えるほど

狭~い場所に生息しています。

途中あった祠。

不動明王でしょうか。

少し可愛らしいお顔をされています。

大クスと妻。

とにかく建物や、石段に囲まれ、

窮屈極まりない場所に

これだけ大きなクスが今もなお

成長し続けているのは、

不思議なくらいですが、

長崎県のサイトには、

「当時このあたりは原始林で、

このクスノキはその中の

一本であったと思われる。」

こう記されていますので、

大徳寺が開基される以前は

原始林の中、

の~んびりと暮らしていたのでしょう。

大クスの案内。

手前の幹は人の都合なのか、

それとも台風などで枝が折れたものを

剪定したのか、切られています。

大クス全景・・・は撮れません(汗)。

境内の中に以前は三軒あった

梅が枝餅屋の中

今も営業を続ける「菊水」という

お店の前にあるお寺だった頃からの

歴史を綴る案内板。

境内図をアップで撮影。

地形は今とあまり変わりませんし、

左端には、大クスも描かれていますね。

ここから少し行くと鳥居が見えて来ます。

明治元年に建立された鳥居。

神額には「楠神社」と書かれていて、

調べると、この「楠」とは、

大クスの事だけではなく

楠木正成の事らしいのです。

また、鳥居向かって左側には

「長崎府」の文字が刻まれていて、

明治維新後1年ほど

「長崎県」ではなく「長崎府」として

存在した事の名残を垣間見れます。

なにげに見た鳥居が、

こんな歴史を持ったものとは、驚きです。

この鳥居をくぐって、階段を登ると

先の名勝図会に描かれた

お寺の部分になります。

右が観音堂の跡。

ここにも樹齢400年前後の

クスがそびえています。

また、左側の奥に見えるのが、

「大徳寺の大クス」です。

梅香崎天満宮

大徳寺の鎮護社だったのは

観音堂(跡)向かって右側に鎮座している

梅香崎天満宮す。

左側の公園が大徳寺跡の公園、

右が梅香崎天満宮。

手水鉢には、「梅香崎神社」の名前。

この手水鉢の裏には、

大徳寺創建300年記念の

素晴らしい磁器製の図会があります。

 

天保六年(1835年)寄進の灯籠。

拝殿。

参拝。

本社左横の稲荷神社へ。

参拝。

著名人の碑など

梅香崎天満宮の境内前には、

いくつもの碑があります。

お寺や神社、龍踊り誕生の地。

オランダ生まれの米国人、

フルベッキ博士が滞在していた

大徳寺で、大隈重信は英語や

新約聖書を学んだそうです。

この時、副島種臣も一緒に習ったと

書かれています。

幕末維新で活躍した佐賀藩の二人も

「大徳寺の大クス」を見て、

大志を抱いたのかも知れませんね。

遠山の金さんの父である

遠山佐衛門景晋ご参拝の碑。

ここには対馬に2回行った業績が

書かれていますが、

Wikipediaで調べると、

対馬どころか、蝦夷地出張3回など

江戸幕府の対外政策の

第一戦を担って東西奔走したと

書かれています。

これで、大徳寺の大クスめぐりは完了です。

大クスを見るのが主目的だったのに

いつのまにか、神社や偉人たちの

足跡も追ってしまう

盛り沢山の訪問となりました(笑)

 

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