大避神社(兵庫県赤穂市)前編

 

秦河勝はたのかわかつ

大避おおさけ神社の御祭神は秦河勝。

参道入り口には、

この神様(人物)について、

詳しい案内があります。

「秦河勝ゆかりの地坂越」

一部を書き出すと

以下になります。

「秦氏は百済から

渡来して帰化した弓月君を祖とし、

土木、養蚕、機械などの技術を発揮して、

大いに栄えた古代氏族です。

その中でも秦河勝は、

飛鳥時代前半

(6世紀〜7世紀半ば)に

聖徳太子に仕え、

山背国やましろこく葛野郡太秦

(現在の京都市右京区太秦)に

広隆寺を創建したことで有名です。

大避神社の縁起によれば、

秦河勝は聖徳太子死後の

皇極3(644)年9月12日に、

蘇我入鹿の乱を避けて

海路で坂越に漂着し、

千種川の開拓を進めたのち

文化3(647)年に坂越の地で

没したと言われています。

坂越湾に浮かぶ生島

(樹林は国指定天然記念物)には、

秦河勝の墳墓と伝える

古墳が今も残されています。」

鬼ノ城大野城など、

古代山城の築城を指導したのも

百済の貴族だし、

大和朝廷にとって、

百済人というのは、

貴重な頭脳集団だったのでしょう。

こちらは駐車場の建物に

貼ってあったポスター。

北前船寄港地だった「坂越浦」は

大避神社を含め

日本遺産に認定されています。

北前船をモチーフにした案内。

「生島」、「坂越の船祭り」、

「大避神社」。

この中で、船祭りについて

書き出してみます。

「毎年10月に行われる船祭りは、

大避神社から

神霊を生島へ渡すお祭りです。

坂越が船を使った交易で栄えた頃、

船乗りたちは、今のような

勇壮な船祭りを作り上げました。」

御祭神がお墓へ

里帰りする?

みたいなもので、

大切なお祭りであることが

よく理解できます。

生島

大避神社参拝前に、

まずは秦河勝さんのお墓へ。

といっても

島には渡れませんから

対岸からの遥拝です。

「天然記念物 生嶋樹林

是ヨリ南

海上四〇〇メートル」の石柱と生島遠景。

遥拝。

参道

生島に背を向け、

大避神社へと向かいます。

なんか、

レトロでいい雰囲気ですね!

一の鳥居。

社号表。

神門へ。

神門前から振り返ると、

秦河勝さんのお墓がある

生島を望めます。

本殿に坐す御祭神の秦河勝さんにも、

この光景が見えているのでしょうね!

Wikipediaには、

延享三年(1746)の再建と

書かれています。

随神様(阿形)。

吽形。

神仏習合の名残でしょうか、

随神様と背中合わせに

門の裏側には、

仁王像もいらっしゃいます。

吽形。

拝殿へ。

手水舎への参道。

こんなしつらえがあると、

手水すること自体、

なんだか特別感が出て、

参拝気分が盛り上がりますね!

お〜これも特別感ありますよ!

元禄二年(1689)寄進の手水鉢、

渋いですね〜!

これが寄進された12年後の同じ巳年、

江戸城、松の廊下で刃傷事件がおき、

翌年の赤穂浪士の討ち入りへと

つながるのです・・・。

御社殿

手水を楽しんだ後は御社殿へ。

神門と同じく、

延享三年再建の拝殿。

本殿は明和六年(1769)の再建と

Wikipediaには書かれています。

拝殿の両脇には回廊があり、

この中には多くの絵馬が

奉納されています。

拝殿向かって左側の回廊。

絵馬も素敵ですが、

回廊内には多数のベンチが設けられ、

神社さんのウェルカムな雰囲気に

思わずほっこりします。

僕たちが気に入った絵馬。

右側の回廊。

絵馬もたくさんありますが、

ここでの注目はこちらです。

「兵庫県有形民俗文化財

祭禮用和船 楽船」

以下、案内を抜粋します。

「この船は国選択無形文化財

「船渡御祭」に使用されたもので、

楽人が乗って雅楽を奏でた。

現在では復元船が使用されている。

祭礼船十二隻の中でこの船だけが

屋形を持つ」

このあとは、

本殿東側の境内社へと向かいます。

(後編に続く)

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください