2020/03/16

離宮八幡宮(京都府大山崎町)

 

満身創痍で歴史を支えた神様

大分県の宇佐神宮からの

勧請で創建された離宮八幡宮は、

歴史の波に翻弄されながらも

その文化的な価値を

輝やかせている神社です。

本能寺の変から11日後に起きた

山崎の合戦の舞台となり

幕末の禁門の変では、

長州藩の駐屯所が置かれた事で、

幕府・薩摩連合軍の攻撃で、

大きな被害を出し、

その後明治時代には、

隣接する大阪府への割譲や、

鉄道の敷設により

神領は大きく削られています。

苦難の歴史があったにも関わらず、

その境内には多くの

歴史的文化財などが残り、

古いものが大好きな僕を

飽きさせない魅力満載の神社です。

離宮八幡宮へ

天王山山頂の山崎城から

山を下りて向かったのが

JR山崎駅近くに鎮座する

この旅最期の訪問地、

離宮八幡宮。

大山崎町指定文化財、

江戸時代の建立の

離宮八幡宮、東門。

ここからは入らず、正面へ。

正面入り口、「惣門」

こちらも江戸時代のもので、

大山崎町指定文化財です。

惣門正面。

この惣門、あまり見た事がない

特異なデザインです。

境内側から見ると

鳥が羽を畳んだような形。

一の鳥居周辺。

製油の発祥地

ここで、荏胡麻(えごま)油の

製造が始まったことから

製油の発祥地とされる

離宮八幡宮。

鳥居をくぐってすぐ右側にある

その案内の絵が目をひきます。

「社伝によると平安時代、

神勅により当宮の神官が、

「長木」という油しぼり道具を

作ったといわれます」

このように書かれ、

復元された長木の写真付きの

案内も添えられています。

こちらは「油祖像」。

油祖像のアップ。

河陽宮故址

離宮八幡宮の公式サイトには、

「嵯峨天皇の離宮である

「河陽宮」跡地に創建された

神社であるので

現在「離宮八幡宮」と号しています」

このように書かれています。

河陽宮故址の石碑。

石玉垣(柵)まで巡らした

素晴らしい石碑です。

御社殿へ

まずはお手水。

手水舎。

常夜燈には、

「石清水八幡宮」と

刻まれていて、

ここが石清水八幡宮の

元宮である事を体感出来ます。

対になった左側の常夜燈。

これら楼門前の常夜燈は、

元禄八年(1695年)寄進と

古いものですが、

大きな傷みも少なく、

崇敬者たちによって

大切にされて来たことが

伝わってきます。

中門(四脚門)。

中門前に鈴があるのは、

門が閉まっても参拝出来るようにとの

配慮なのでしょうか?

少し、珍しいですね。

ご由緒。

江戸時代の境内図と

現在の境内図を上下に配置して、

その規模の違いや、

過去と現在の重なる部分、

現在は遺構となって残った所、

JRの線路になった神域なども分かり、

実に見事な案内板です。

「大山崎町の歴史・文化遺産を生かした

地域活性化実行委員会」の皆さん、

グッジョブ!(笑)

拝殿。

参拝。

拝殿前の気になる井戸とともに。

本殿。

御朱印。

ここでツーショット完了。

境内社など

冒頭でも書いたように、

離宮八幡宮には、

境内社とともに、

文化財的な遺構などが

いくつもあります。

本殿右脇の境内社(若宮社)。

本殿左脇。

右が、岩清水(井戸)

神社のサイトには、

「九州宇佐八幡宮から

神霊を奉じて帰京した僧、

行教が山崎津で夜の山に

霊光をみました

そこでこの地を掘ると

岩間から清らかな水がわき出したので

「石清水」の八幡宮を創建しました」

このように石清水八幡宮の

元宮としての発祥が書かれています。

また、左の小さな手水鉢は、

江戸時代初期寄進のもので、

同じく、神社のサイトには、

「江戸時代始めの寛永11年、

当社御造替の際に勝竜寺城主

永井日向守大江直清が

幕府の命令で造栄奉行として奉仕し、

その記念として奉献したものです」

このように書かれています。

寛永11年は西暦1634年、

江戸幕府は三代将軍、

徳川家光の時代です。

境内社群。

こちらの常夜燈には

「延寶六戊午」の文字がありますので、

1678年奉納のものです。

対になった左側の常夜燈。

高天宮神社。

左が腰掛天神、右は小禅師宮。

腰掛天神の横には、

菅原道真公が腰掛けたと言われる、

「菅原道真腰掛け石」があります。

妻も腰掛けたので、

「妻の腰掛け石」に改名(笑)

左が三社さん、右は高良社。

宝塔礎石。

拝殿前にあった案内板の、

寛永十一年造営の絵図には、

丁度この位置に多宝塔が

描かれていました。

常夜燈(灯籠)を目的に

撮影したのですが、

実は、この左奥の石柱2つが

「神領境標石」という、

大山崎町指定文化財でした。

神社のサイトを引用すれば、

「おそらく元は境域の東西南北四に

立てられていたものであろうと

考えられます

現存する1つ(右側)には

表「従是北 八幡宮御神領大山崎総荘」

右「殺生禁断所」 左「守護不入所」

他の1つ(左側の大きい方)には

表「従是西 八幡宮御神領守護不入之所」

右「殺生禁断所」 左「大山崎総荘」

と記されています。」

と、このように書かれています。

かなり珍しいものだったのに、

参拝時には気づかずにいましたが、

偶然写っていたのはラッキーでした。

神馬像。

塔心礎(かしき石)の案内。

「塔心礎とは、五重塔など

木造塔の中央に立つ

心柱を支える礎石のことです。」

「その形式から制作年代は

奈良時代以前と考えられます。」

「後年、中央の柱座部分を

扇型に彫り込み、

手水鉢として使用されました」

凄いものですよね!

奈良時代以前のものが

ここで見られるなんて。

手水鉢に改造した時、

手前の盃状穴(多分)が

彫られたのかも知れません。

大きさの比較。

今日の発見

天王山に登る前に

駐車場を探している時、

Google Mapでは

離宮八幡宮の駐車場が、

タイムズパーキングに

なっていたのですが、

それらしき看板が無かったことから

別の駐車場に停めました。

しかし、ここで発見したのです!

駐車場のこのひと区画に

何やら看板が設置されている事を・・・。

へ~!

一区画だけの

タイムズパーキングですよ!

時代は僕の遙か先を行っています(汗)

 

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