山崎城(天王山山頂)

 

山登りの気分転換

登山が趣味の人は、

山を登るという行為自体が、

大いなる楽しみでしょうが、

僕のように

主体は登山でなく、

山城訪問が目的で山に登る場合、

同じような景色をずっと見ながら

ただひたすら山登りをするのは、

なかなか精神的には、

きついものがあります。

(山登り好きな方ゴメンチャイ)

ところが、天王山には、

登山道の所々に

僕の興味をそそるお寺神社お墓

展望台など、いくつもの

息継ぎ場所?があって、

そこで散策を楽しんでいるうちに

270mという標高を

あまり感じる事もなく

いつの間にやら?

頂上に到達したのです。

素晴らしき山かな天王山(笑)

山崎城

酒解神社を過ぎ、

3分ほど行くと、

嬉しい標識に出会えます(笑)

「天王山頂上 0.1km」

お~あと100mか~!

(心から湧き上がる歓喜の声)

このあたりに転がっている石は、

山崎城の石垣に使われたものも

あるかも・・・。

山頂(本丸)に到着。

山崎城の案内。

「天正10年(1582)6月、

山崎の合戦で勝利した羽柴(後の豊臣)

秀吉は、翌7月、山頂に山崎城を築き、

大山崎を城下町として保護した。

この時、秀吉は織田信長の後継者を意識し、

千利休らと大山崎で茶会を開いた」

この「大山崎で大茶会」というのは、

JR山崎駅前の寺院、

妙喜庵(みょうきあん)内にある

国宝に指定された、

日本最古で、千利休作と信じ得る

唯一の現存茶室である

「待庵」(たいあん)が、

山崎の合戦の陣中に作られ、

それを今の場所に解体移設したと

言われているのと何らかの

関係もありそうですね。

続いて、案内には、

「大阪城築城が本格化すると、

天正12年4月に山崎城は、

破却された」

このように書かれています。

この破却について、Wikipediaでは、

天王山に行く前日、僕たちが参拝した、

吉田神社の神主、吉田兼見の日記の

『兼見卿記』をあげています。

その内容は、

「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、

奉公罷リ越ス— 兼見卿記 

天正十二年三月廿五日条」。

確かに裏付けられています(笑)

まさか、ここで、

吉田兼見の名が出るとは、

吉田神社の神様にご挨拶した

甲斐があったというものでしょうか(笑)

利害関係はあるにせよ、

本能寺の変から山崎の合戦までの

短期間に数回も明智光秀と会見するなど

以前から光秀と懇意にしていた

吉田兼見が、光秀が滅び、

秀吉が天下取る過程を

どんな思いで見ていたのでしょう・・・

このマップをみただけで、

天王山が日本の歴史舞台として、

いかに凄いものかが分かりますね。

山頂の陶板絵図。

「秀吉の道」最終回は、

「秀吉の「天下人への道」は

ここからはじまった。」です。

文末は、

「秀吉のきらびやかな天下、

それは、この天王山の東側で行われた

合戦からはじまったのである」

このように結ばれています。

山崎の合戦から秀吉が死ぬまで、

わずか、16年・・・

関ヶ原の戦いまでは18年・・・

豊臣家滅亡の

大阪夏の陣まで33年・・・

なんと天下の儚いことか・・・。

やはり令和2年の天王山は、

結果的に、秀吉の

天下取りをサポートした

光秀が主役(笑)

主郭。

天守台跡。

わずかながらですが、

石垣も残っていますね!

天王山 山頂。

ここでツーショット。

主郭から一つ下がったところには、

井戸の跡があります。

この他には、

石垣の遺構などもあったようですが、

見逃してしまいました(汗)

下山しちょうと通りすがった所で

見つけた石仏など。

江戸時代のものでしょうか・・・

今日の注目

主郭で見つけた看板。

天王山に50回登頂し、

登頂証明書を50枚購入すると

天王山をデザインした

「特製オリジナルグラス」が

貰えるという告知です。

こちらが、

麓で見た「天王山登頂証明書」です。

登頂50回か・・・

地元に住んでいる方なら

達成出来る数字かも知れませんね。

余談ですが、

「特製オリジナルグラス」、

ネットで画像を見つけました!

ちょっと欲しいかな?

という位に魅力的なグラスです。

 

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