龍王宮秀郷社(滋賀県大津市)出会い編

 

龍神様の導きに感謝

過去何回も書いてますが、

僕自身、

旅先で現地の人との交流などは、

全く望んでいません。

理由は「人見知り」だから(笑)

でも、

何故か出会ってしまうんですね、

運命の男性ひと」に(笑)

今回は、

瀬田の唐橋の東詰で散策中、

小さなお堂を丁寧に清掃していた人で、

実はこの方、

瀬田の唐橋を見守る

龍王宮秀郷社の宮司さんでした。

この日、雨が降らなければ、

僕たちは観音寺城へ行き、

瀬田の唐橋を散策することは

無かったはず・・・

龍王宮の雨を司どる

「龍神様」のお導きに

心から感謝です!

本を頂く・・・

ここからが本題(笑)

ここが宮司さんとの出会いの現場。

この後、瀬田の唐橋をバックに

僕たちのツーショット写真も

撮ってくださったりして

お話するうちに

男性が、龍王宮秀郷社の

宮司さんだとわかりました。

このお堂は、昭和51年に

橋の基礎石部分で見つかった

室町時代の石仏を

「橋守地蔵」として祀っているのですが、

この石仏の発見をきっかけとして

昭和五十一年に書かれ、

それを平成十年にまとめたのが、

こちらの本です。

豊富な絵図などを使った

100ページ以上にものぼる

瀬田の唐橋についての大作で、

その「はしがき」を抜粋すると

以下になります。

「瀬田の唐橋について、

膳所ぜぜ藩のことを調査研究している筆者は、

数年前から(中略)纏まったものを

書きたいと思っていた。

膳所藩は古来勢田橋(瀬田の唐橋)を

制する者は天下を制すると云われた

この勢多橋の保護管理を

重要任務の一つとして幕府から課せられて、

徳川三百年の間その要請に応えており、

勢多橋掛替記録等も

残っているからである。」

「何時、誰が、何の目的で

橋脚の下に安置したものか

知る由もないが、

四百年以上も水中で瀬田橋を

守りつゞけて来られた石仏である。

瀬田の橋守り石仏、

或は橋守り地蔵として

今年の地蔵盆までに屋形を造り、

お祀り仕様じゃないかと

愚見を述べたところ

賛成してくださる方々が多い。

そんなことから急ぎこの瀬田の唐橋を

編集することになったが、

(中略)どこまで編集記述出来るか。

極力努力して立派な

石仏の屋形と云うか

地蔵堂と云うかを造り、

よいお祀りよい地蔵盆を

してあげたいと思う。(後略)

昭和五十一年六月」

正直、僕たちと

宮司さんの出会いを

龍神様とともに

仲介してくださったのは、

橋守地蔵さんですから

このご縁もたまりませんね!

もちろんこの本によって、

僕の瀬田の唐橋への興味は倍増です。

本を頂戴した上に、

本の中に

こんな御朱印まで書いていただき、

僕たちの感動はMAXに!

もちろん僕たちのご朱印帳にも

ちゃ〜んと

「授与」していただきましたが、

やはりこちらの方が、

記念になったかな〜(笑)

そして、ようやく神社参拝へ。

(本編に続く)

 

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