柴五郎一家居住跡(青森県むつ市)
五郎ちゃんの活躍
教科書でちょっと習った程度の
清朝末期の、「義和団の乱」。
簡単に言えば、
清国に駐留する外国人達が、
キリスト教を押し付けたり、
横暴な振る舞いをするのを排除しようと
義憤に駆られた人々が武力攻撃を仕掛け、
それに清国政府も乗っかったという
出来事です。
まあ、外国に支配を受けると、
大体こんな構図がおきますが、
そんな乱の最中、
日本を含む八カ国の軍隊は
清(中国)に進駐し、
その中で義和団などに囲まれる、
北京籠城戦という
困難な事態が起きたのです。
その厳しい状況下、
イギリス、フランスなど
八カ国をまとめ指揮し、
勝利に導いたのが、
会津藩出身で幼き日、
斗南に渡った柴五郎です。
また、籠城して一緒に戦った
イギリス人指揮官が、
クロード・マクドナルドという人で、
その後、駐日公使となって、
あの有名な「日英同盟」の締結が
為されています。
五郎ちゃん(笑)の稀有な人柄が、
日英同盟に繋がったとまでは
言い切れませんが、
マックさん(笑)も
「五郎ちゃん、統率力半端ないな〜
めっちゃやるじゃん!
こりゃ日本人を味方にしておくのが
我が国にとっても得策じゃ!」
そう思い日本人への
信頼度は増していたかも知れませんね。
クマ注意
斗南藩士上陸の地から車で約5分、
柴五郎一家居住跡近くに到着。
テニスコート横の
駐車場っぽいスペースに駐車し、
前を見ると・・・
ひゃ〜!クマか〜!
平地なのに、さすが北国だ〜(汗)
注意って言われても、
どんな注意をすれば良いのかな?
熊鈴も持っていないし、
熊スプレーも無ければ、
蜂蜜も持っていないし・・?
ま、こんな時は、
運を天に任せるしかありません(笑)
稲荷神社
楽観的な夫婦なので、
瞬時にクマを忘れ(笑)林の中へ。
この奥っぽいな・・
そう思い少し行くと
左手に神社の鳥居が見えてきます。
参拝する時間はないから・・・
ここからで許してもらおう!
という事で本殿に向かい遥拝完了。
実はこの神社の境内の一部が、
五郎ちゃんのお家が
あったとこだったのです。
遥拝してヨカッタ!
到着。
何もないけど石碑があります。
「柴五郎翁顕彰碑」。
五郎ちゃん、長生きして
翁になっていました(笑)
案内板を見つけられなかったのですが、
「幕末維新 史跡観光」というサイトには、
以前ここに建てられていた案内が、
書き出されていますので、
そちらを引用させていただきます。
「明治維新は、
斗南藩(旧会津藩)にとって
痛恨維新であった。
明治3年斗南藩では士族授産を目途として、
当地落の沢を相し
松ヶ丘に荒川の渓流を引き、
三十余戸の住宅を築造した。
柴五郎(後の陸軍大将)が少年期に
家族と共に同年六月田名部に到着、
寂寥の落の沢で越冬した。
寒気肌をさし、
夜を徹して狐の遠吠えを聞き
五郎の厳父佐多蔵は
「ここは戦場なるぞ
会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と
言ったという。
(「会津人柴五郎の遺書」より)
明治4年廃藩置県により、
忽然と士族授産は消え失せ
士族は四散せざるを得なかった。
斗南士族の胸中には
「まこと流罪に他ならず、
挙藩流罪という史上かつてなき
極刑にあらざるか」という
憎悪と怨念が残るのみであった。
(現地案内板より)」
言葉がありませんね・・
ただ、五郎ちゃんが、
辛酸を舐め、弱者の痛み苦しみを
肌で知る会津人だったからこそ、
指揮統率に優れた軍人になれたのは、
間違いないと感じます。
鏡のような背面に映った草むら。
幼き頃の五郎ちゃんが遊ぶ姿が、
目に浮かびます・・・