鷹ノ原城(南関城)

 

お城の名前

鷹ノ原城(たかのばるじょう)について、

現地案内などで多いのは、

「南関城(鷹ノ原城)」ですが、

お城に行く前に訪問した

豊前街道南関御茶屋跡で、

南関(なんかん)という言い方は

明治十年の西南戦争以降のものと知り、

鷹ノ原城が、本来の名前ではないかと推察。

従ってここでは、

鷹ノ原城を正としています。

とここまで書いて一つ疑問が・・・

それならば「南関御茶屋」も

「南関」ではなく、

本来は違う名前だったのかと(笑)

破城後の姿

慶長五年(1600)、

加藤清正により、

築城開始された鷹ノ原城は、

元和元年(1615)の

一国一城令で破却され、

その20年ほど後に起きた

天草・島原一揆(島原の乱)で、

天草四郎ら一揆勢に

廃城だった原城を占拠され、

立て籠もられたことを

反面教師とした幕府の命令により、

徹底的に破壊され、

往時の姿のほんの一部を

とどめているのに過ぎません。

パンフレット裏面には、

城の縄張り図の下に、

破壊模式図と

お城の特徴が案内されていて、

素人にも分かりやすく

<南関城跡の特徴>の中では、

「徹底的かつ丁寧な破却方法」や

熊本城天守台石垣の

角度との類似点など、

かなり興味深いものが書かれています。

官軍墓地

本丸の一角に

西南戦争で官軍として戦い、

この付近で亡くなった方々の

墓地があります。

登城口から少し行くと、

「右 官軍墓地 左 正勝寺 」

と案内があります。

正勝寺は西南戦争で

官軍の大本営が置かれた寺で、

「南関(なんかん)」という言葉が

生まれた場所ですが、

時間が足りないので、未訪問です。

官軍墓地に参拝。

本丸西虎口

次に本丸周辺へ。

官軍墓地の西側の本丸端。

わずかに石垣が残っています。

西虎口。

石垣はほぼ崩されていますが、

打込み接ぎの石垣の一部は残っていて、

見ごたえは十分ありますね。

堀底から。

ここも石垣が残っています。

本丸から見た西虎口全体。

西虎口から

北側の櫓台方面を動画で撮影。

櫓台

西虎口から櫓台へ。

ここにも虎口があったように見えます。

石垣の質感・色が、

同じ加藤清正が作った

佐敷城を思い起こさせますが、

こちらは肥後の北端、

佐敷城は南端の城ですから

関係はないかもですね。

ここでツーショット完了。

櫓台付近からの本丸全景。

本丸東虎口

次に東虎口へ。

本丸の中心に建つ、

南関城跡(鷹ノ原城)の標識。

「平坦部だけで約九万平方メートル」

このように書かれています。

東虎口には

石垣等はあまりありません。

埋められたままでしょうか?

これは後世のものかな?

城外から見た東虎口。

南関御茶屋跡の

駐車場に戻って攻城は完了。

偶然でしょうか・・・

このブログを書いたのが、

10月25日。

書いている時に気付いたのが、

この城の徹底破却の要因となった

天草・島原の乱が勃発したのも

寛永十四年(1637)の

10月25日という事実。

偶然でしょうか、

いいえ、必然です(笑)

 

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