菊池武光銅像(大刀洗公園)

 

特別な配慮

昭和十二年に造られた

菊池武光の銅像は、

大刀洗飛行場空襲の記憶をとどめた

戦争遺構でもあり、

銅像の馬の腹や石の台座には、

米軍機からの銃撃による

無数の弾痕が残っています・・・

ただし、これは

「その時ここに銅像があったから」こそで、

これ自体が奇跡的な事なのです。

なぜなら、

戦時中の「金属類回収令」により

全国に建つ銅像の多くは、

国に供出されてしまっていたからです。

やはり南朝方、

後醍醐天皇の御子である

懐良親王かねよししんのうを支えて北朝方と戦った、

「菊池武光」の銅像だからこそ、

天皇家を支えた功臣として、

金属類供出の対象から外され、

特別な配慮がなされたのでしょう。

大刀洗公園へ

大刀洗飛行場の遺構巡りを終え、

そのまま大刀洗公園を目指します。

途中見つけた

北海道的な景色。

あまりの暑さで、

体力、気力ダダ下がりの妻。

何とか大刀洗公園に到着。

菊池武光銅像

ここからは菊池武光さん三昧です(笑)

お~!

ようやく会えましたよ、

菊池武光さんと!

実はこの銅像の前で、

若者がスケボーで遊んでいたのですが、

僕たちが銅像を見ていると、

さりげなく場所を空けてくれたのです。

僕の圧が強かった?

いや若者の優しさですよ(笑)

若者たち、ありがとう!

大刀洗公園を見渡すような場所にある

菊池武光銅像。

こちらは裏側なので、表側へ移動します。

移動中、前側から撮影。

正面へ。

正面。

案内がありますが、

戦前の文語体なので、

読むのが大変です(汗)

「巍巍タル高風凛凛タル節義

ナホ千歳ノ後に懦夫ヲモ起タシムルモノ

我コレヲ菊池武光公に視ル

懐良親王ヲ奉ゼシ公ガ・・・・」

ん~やっぱり難しすぎる~(汗)

ということで、

こちらの案内を読むことに。

「菊池武光銅像」

「正平十四年(1359)

八月七日大保原(小郡市)で武家方の

少弐頼尚に勝利した宮方の菊池武光は、

さらに敗走する敵を追って

山隈原まで進出した。

この方面で戦っていた少弐方の

大友勢も菊池勢の側面からの攻撃に敗れた。

武光はさらに小川を渡り

(菊池渡りという)深く追撃しようとした。

しかし夜明け前からの激戦で

死傷者は少弐方一万八千人、

菊池方六千九百人と伝えられるように

味方も損害が大きく疲れ切っていたので、

進撃することを止め、

軍を山隈原にまとめた。

朝からの戦いで血まみれの刀を

山隈原を流れる小川で洗うと、

刃は鋸のようにこぼれており、

川の水は真っ赤に染まった。

「帰来、河水に笑って刀を洗えば、

血は奔端にほとばしって、

紅雪をふく ・ 頼山陽」

「そのかみの血潮の色とみるまでに、

紅葉流るる大刀洗川 ・ 乃木大将」

古人は、このありさまを

このように詠じている。

この故事によって、

本町は大刀洗町と名付けられた。

勇ましい姿のこの銅像は

ゆかりの菊池渡りの地に

昭和十二年建立されたものである。

なお、馬腹や台石の弾痕は

昭和二十年三月の

大刀洗飛行場爆撃時の名残です。」

このように書かれています。

「正平十四年」は、

菊池武光さんが風浪宮

燈籠を寄進してから四年後の事。

寄進の効力が、

この戦いの勝利に

関係しているかも?(笑)

また、

甘木鉄道には「山隈」という

駅がありますが、

ここはそのお隣、

西太刀洗駅の近辺ですから。

戦場の真っ只中だったのかも

知れませんね。

斜め前から。

斜め後ろから。

正面のアップ。

馬に乗っていない銅像です。

この姿を見て、

今年、埼玉の旅で訪問した、

馬を担いでいる

畠山重忠の銅像を思い出しました。

斜め前からのアップ。

菊池武光さんのお顔どアップ。

この眼力めぢから、凄いですね!

この角度だと、

強さの中に優しさが

見て取れるような・・・

馬の尻がたまらん(笑)

裏側のアップ。

弾痕

銅像を堪能した後は、

昭和二十年三月の空襲の跡を

再度確認します。

馬の腹を貫通した弾痕。

台座の弾痕アップ。

同じく台座の弾痕。

戦争の傷跡を修復しないのも

大切な「保存方法」の一つでしょう。

最後に正面の遠景を撮影して

菊池武光銅像を後にします。

 

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