田中城(熊本県和水町)前編
三つの田中城。
僕が知っている「田中城」は3つ。
一つ目は、
琵琶湖畔、滋賀県高島市の田中城。
ここは、
関ケ原の戦い後、石田三成を捕縛し、
筑後国主(柳川城主)となった
田中吉政の祖先が築造し、
戦国時代には、足利の幕臣だった
明智光秀が籠もったといわれる城で、
以前、僕たちも訪問しています。
二つ目は、
静岡県藤枝市の田中城。
徳川家康が鷹狩で頻繁に使い、
ここで食べた鯛の天ぷらで
お腹が痛くなったという話が残っています。
(その数ヶ月後家康は死亡)
そして、
三つ目が、ここ熊本の田中城です。
「田中」姓も多いけど、
「田中」城も多いという事実
これで証明されていますね(笑)
駐車場
天正15年(1587)の
肥後国衆一揆での田中城攻防戦を
頭にしっかりとインプット。
準備万端で田中城へ。
田園風景が気持ちいい!
駐車場。
背後の山が田中城です。
案内を要約すると
「天正15年(1587)に起こった、
「肥後国衆一揆」の舞台となった城です。
戦いの様子は、平成元年に発見された
「辺春和仁仕寄陣取図」により
はっきりしました。
攻める豊臣方は、小早川秀包、
安国寺恵瓊などの毛利軍、
立花宗茂、鍋島氏などで一万、
籠城する和仁氏は数百~千名程度、
36日間の攻防の末、
和仁氏側の辺春氏の裏切りにより落城。」
このようになります。
ここで書かれた
辺春和仁仕寄陣取図がこちらです。
これが見つかってヨカッタ~!
駐車場は鍋島軍の前あたりかな?(笑)
駐車場の一角に建つ案内。
「和仁城三の丸城主(出丸)
和仁人鬼親宗奮戦の地」
本丸
ここからは徒歩。
まずは本丸を目指します。
駐車場方面。
今はのどかな風景ですが、
天正15年は、
阿鼻叫喚の地獄絵だったはず・・・
石垣はありませんが、
本丸の高さはかなりのもので、
かなり攻めるのは大変そうです。
本丸到着。
「田中城跡」の案内。
これは供養塔のようなものでしょう。
全滅に近い形で落城した田中城、
恐らく多くの兵士が
この地下に眠っているはずです・・・
エントランス。
ここも素晴らしく整備されていますね!
この景色を見ると、
なんだか、箱根山中に築かれた、
北条氏の山中城を思い出します。
発掘調査の解説。
田中城全体図を拡大。
建物跡。
解説は以下になります。
「この建物遺構は発掘調査によって
発見された建物の柱穴をもとに
当時の大きさを
立体的に表現したものです。
ツゲの木は当時の柱の位置と
壁の広がりを表しています。
足元の枠は建物のおおよその
大きさを表していますが、
柱の中心から90cm前後が
屋根のひさし(雨だれ)の
位置と思われます。」
各所に再現された遺構があって、
実にわかりやすくなっています。
和仁一族解説。
三兄弟がこの城に籠もって
戦ったのですが、
次男は、籠城戦の前から
立花宗茂の家臣となり
その子孫は現在も静岡に
在住と書かれています。
田中城跡の碑文。
掘立柱の建物が
ここにはいくつも存在していた事が
良く分かります。
台所跡。
井戸に近いのと
カマドの跡が見つかった事で、
台所と推定されています。
本丸でツーショット完了。
本丸から外に出て
本丸の土塁を散策。
石垣はないものの、
この高さは凄い!
本丸南側の崖。
ここも難攻不落・・・
でも落ちたか(汗)
本丸へ続く堀切。
随所に、戦国を感じられます。
出丸跡3
本丸の南側には、
独立した曲輪があります。
先程の縄張り図では「出丸跡3」と
書かれていた南側の出丸です。
この曲輪、高さはあるものの、
何とか登れそうなので、
登ってみました。
ここから攻城。
出丸頂上から見た
本丸と周囲の曲輪。
上から見ると結構高くて、
足がすくみます(汗)
そして回れ右(笑)
細長な曲輪。
丁度イチョウの葉が色づいていて、
この風景に目が釘付けです(笑)
田中城ミニミュージアムの
「3Dジオラママッピング」で見た限り、
ここの崖は急なので、
秀吉軍は登っていないようです。
下には田中城ミニミュージアムも
見えています。
総大将の小早川秀包さんが
布陣していた方面ですね。
出丸は爽快感いっぱい!
飛行機雲がXなので
Xポーズで妻を撮影。
気持ちよすぎて、
ジャンプもしたくなります(笑)
最後はイチョウの木の下で、
武将のポーズ。
命懸けで戦った
戦国時代の武将さんたちには、
申し訳ないほど、
大いに楽しませていただきました!
(後編に続く)