東行庵(下関市)高杉晋作陶像

 

ごく稀な存在

東行庵の高杉晋作の像は、

新旧二体あり、

それぞれ材質が違います。

一つはスタンダードな「銅像」で、

もう一つは「陶像」、

要するに「陶器で作った像」です。

各地を巡っても陶像というのは、

ごく稀な存在で、

近々で覚えているのは、

2年半ほど前に

瀬田の唐橋近くで見た、

藤原秀郷の陶像くらいです。

楓の路

奇兵隊及び諸隊士顕彰墓地を参拝し、

その山の裏側にある楓の路へ。

名前の通りここは楓だらけです(笑)

本格的な紅葉はもう少し先かな?

ここは綺麗に紅葉していますね!

テンション上がったので、

ここでツーショットを撮影。

高杉東行顕彰碑

楓の路を下っていくと

高杉晋作墓所の入り口近くに、

「高杉東行顕彰碑」があります。

実際は巨大で立派なのですが、

比較するものがないと

なんだか小さく見えますね(汗)

「高杉東行(晋作)顕彰碑」

「高さ三、二米 巾一、五米

従二位公爵毛利元昭公篆額てんがく

正二位大勲位公爵伊藤博文撰

この碑は明治四十四年この山上に建てられ

同五月井上馨公によって除幕された。

動けば雷電の如く発すれば

風雨の如しという名文に始まって

東行の残した業績がよく書いてあり、

字は明治の三筆といわれた

杉孫七郎のものである。」

顕彰碑建立の2年前、

伊藤博文はハルピンで暗殺されていますが、

その前に撰文を

終えていたのでしょう・・・

ちなみに高さ3.2mなので、

妻の身長の二倍です。

山縣有朋像

晋作さんの陶器の像へと向かいますが、

そのすぐ手前には山縣有朋の銅像があり、

必然的に見ることになります(笑)

案内。

晋作さんの立つ場所から

一段下に建立された山縣有朋の像。

旧字体が正式なので「山県」ではなく、

「山縣」として書きます。

「山縣有朋公像」

「吉田松陰の松下村塾で高杉晋作と

机を並べた山縣有朋(狂介)は、

高杉が病気のため

身を退いたあとの奇兵隊を引き継ぎ、

軍監として攘夷戦、

さらに戊辰戦争を戦い、

元勲として明治維新史に

その勇名を刻みました。

日本陸軍の総帥、また第三・第九代

内閣総理大臣を務めた

軍人政治家山縣有朋の一面は、

歌を詠み庭園を愛した文人でもありました。

維新後、生活の基盤を失った

盟友高杉の愛人おうの(梅處尼)に、

山縣は自分が住んでいた無隣庵と

その周辺の広大な里山をそっくり譲りました。

これが東行庵のはじまりです。

昭和八年(1933)、

山縣有朋の威徳を称える銅像が

東行庵境内に建てられました。

これは太平洋戦争の金属供出で

影を消していましたが、

平成二十七年(2015)春、

新しく青年志士山縣狂介の

凛々しい姿として復元が成りました。」

「山縣狂介(有朋)像」の銘板。

若い頃の銅像なので「狂介」を

主にしたのでしょう。

「狂介」の「狂」は、

師である吉田松陰の教え、

「狂いたまえ」

(信念を持ち、周囲を気にせず、

狂ったかのように情熱を持って行動せよ)

からとったものと思われます。

高杉晋作も「西海一狂生」と

名乗ったりしていましたし、

吉田松陰という師がいなければ、

この二人や同じ門下生の伊藤博文の人生も

また、日本の形自体も大きく

変わっていたかも知れません。

「狂」の一文字だけで、

吉田松陰の偉大さを改めて知るとは、

山縣有朋の像に会えて、

ほんと良かったですよ!

斜めから。

家紋、三つ鱗なんですね!

正式には「細輪に三つ鱗」ですが、

北条氏と関係あるのかな?

上から見ている高杉さん目線(笑)

上段の高杉晋作陶像と山縣有朋像。

銅像の位置と向きとポーズからして

何だか晋作さんの陶像に対しての

神社の狛犬的な存在に

感じてしまいます(笑)

山縣ファンの方、ごめんちゃい!

高杉晋作陶像

そして上段へ。

晋作さんの前の紅葉だけが、

めっちゃ紅葉していますね!

思わずそっちに目が行ってしまいます(笑)

陶像の説明版も陶器です。

「下関東行先生像建設會より

備前陽山作先生の陶像を寄贈せらる」

このようにありますので、

恐らくこの陶像は、

備前焼で間違いないでしょう。

備前焼狛犬は多く見てきましたが、

備前焼晋作は初めてです(笑)

昭和三十一年四月十四日、

晋作さんの九十回忌に

建立されたと記されていますので、

すでに70年もの歳月が経過していますが、

それにしては若々しいお顔ですね!

墓碑銘などと共に。

「墓碑銘」

「元治元年(1864)十二月、

長州藩の討幕路線を確定させた

功山寺挙兵直前、

高杉晋作が大庭伝七

(勤王商人白石正一郎の弟)に

あてた手紙は、

平信を装っているが、

あきらかな遺言の文言を見せ、

墓碑銘も指定している。

 

死しても恐れながら天満宮の如く相成り、

赤間関の鎮守と相成り候志に御座候。(略)

別紙詞作御覧頼み奉り候。

表 故奇兵隊開闢総督高杉晋作則

西海一狂生東行墓

遊撃将軍谷梅之助也

裏 毛利家恩古臣高杉某嫡子也

 

この墓碑は採用されず

現在の墓標となっている。

百五十忌(平成二十八年)にあたり、

生涯の事績をみずからが総括した

見事な自画像ともいうべき

まぼろしの墓碑銘を刻んで建碑した。」

これが晋作さんオリジナル。

こちらがまぼろしの墓碑銘です。

「墓碑銘の現代語意訳」

「奇兵隊はわが国近代的軍事組織の

祖型をなすものとして

歴史にのこるであろう。

僕はその創始者であり

初代総督としての栄誉にあずかる者だ。

「西海一狂生」とは孟子に学ぶ

吉田松陰先生から授けられた

狂の思想を実践する者みずからへの

命名である。

牧野久坂玄瑞をはじめとする

松下村塾生一同の行動力、

突破力は、松蔭先生の薫陶で

醸成された詩的狂気に発するのだ。

「遊撃将軍」とは何か。

遊撃手はあらかじめ

当面する敵を想定せず、

自在の運動線にあって、

にわかに出現する敵を撃滅する

戦闘者のことである。

僕は群れを離れて待機する

遊撃隊長であった。

奇兵隊の結成、高山寺決起、

四境幕長戦争における僕の役目は

いずれも遊撃による殊勲であったことを

僭称してはばからず、

それが詩人の夢を捨て、

戦闘者となって果たした

僕の仕事のすべてである。

最後に裏面の

「毛利家恩古臣高杉嫡子」とは

何を意味するか。

誇り高い武士意識こそが、

僕の行動規範であったことを

暗喩する一行を添えたのである。

【古川 薫】」

ここで注目すべきは、

「詩人の夢を捨て」の部分です。

日本初の招魂場を創設し、

本格的に仲間の慰霊をした優しさを思えば、

晋作さんは戦う事を

好んでなかったのでしょう。

晋作さんは動乱の世でなければ、

身を粉にすることもなく、病も得ず、

詩人として、穏やかに

人生を全うしたかも知れません・・・

紅葉と晋作さん。

なかなか絵になりますな〜!

最後はこれで〆。

この後は、「銅像」へと向かいます。

(続く)

 

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