徳川家綱霊廟勅額門(東京都)
間借り?
徳川将軍家のお墓は、
初代家康と三代家光、
そして十五代慶喜を除き、
上野の寛永寺と、芝の増上寺にあり、
寛永寺には、四代家綱、五代綱吉、
八代吉宗、十代家治、
十一代家斉、十三代家定、
増上寺には、二代秀忠、六代家宣、
七代家継、九代家重、
十二代家慶、十四代家茂が、
埋葬されています。
ただし、絢爛豪華な霊廟は、
七代家継までで造立を止め、
八代吉宗以降は、
七代以前の霊廟に「間借り」する形で、
宝塔のみが建立されています。
これは吉宗さんが倹約の為、
「墓にお金をかけるのは勿体無い、
間借りでもいいんじゃね?」
そう言って始めた制度で、
我が身を持って
模範を示した形となっています。
ただ、どちらのお墓も
空襲などで焼けてしまい、
往時の姿はありません・・・
そんな中、
運よく残った遺構の一つが、
今回訪問した、
徳川家綱霊廟勅額門です。
林光院
根本中堂から歩いていると、
途中で気になる燈籠を発見。
こんな道端に何故あるんだろう?
そう思って、柱の文字を確認すると
驚きの刻印があるではないですか!
「大猷院殿 尊前」
これは三代将軍、
徳川家光の戒名ですね!
こちらも同じく大猷院と刻印され、
さらに
「慶安五年壬辰 四月二十日」の
文字も確認出来ます。
家光さんが亡くなったのは、
慶安四年四月二十日、
よってこの燈籠は、一周忌法要で
寄進されたものと思われます。
そして、
少し歩くと右手に見えてきたのが、
寛永寺の子院です。
「林光院」とあり、
左右の燈籠を確認すると
これまた「大猷院」と刻まれています。
ブログを書いていて、
天台宗東京教区のサイトで調べると、
「慶安4年(1651)ご逝去の
徳川家光公をまつる寛永寺の
大猷院霊殿が建立されるにあたって
当院の敷地が選ばれ、
西北の地に移転しました。」
このようにありますので、
やはり家光さんの霊殿は、
寛永寺にもあったのです。
この門も先ほどのサイトによれば、
徳島藩の江戸藩邸の、
中屋敷御庭仕切門を
移築してあるそうです。
庭の燈籠には、「台徳院尊前」の文字。
台徳院は二代将軍秀忠の戒名ですが、
これは移設されたのでしょうか・・・
参拝。
寒松院
林光院のすぐ先にあるのが寒松院です。
エントランス。
門の手前、左右には、
気になる標柱が・・・
「旧東照宮別当寺」
「津藩藤堂髙虎公開創之寺」
こりゃ凄いところに来ました!
上野東照宮は藤堂髙虎の
屋敷内に造られたのが最初なので、
戦災等によってここに移転したという
ことだと推察ができます。
改めて先ほどの
天台宗東京教区のサイトで調べると、
やはり当たりでした(笑)
その一部を抜粋します。
「寒松院開基である津藩主・藤堂高虎公の
ご法名をそのまま寺名にしたものです。
高虎公は現在の上野動物園から
東照宮にかけた場所に
下屋敷があった大名であり、
家康公を祀る上野東照宮が建立された時に、
江戸市民が参詣する際の便を図って
屋敷地を献上しました。
同時に寒松院を東照宮の別当寺として
建立したのです。
寛永4年(1627)のことでした。
一説によれば「上野」という地名も、
高虎公の領地である伊賀上野から
つけられたと言われています。」
境内へ。
参拝。
徳川家綱霊廟勅額門
道草三昧しながらも
ようやく霊廟の門に到着。
徳川家のお墓に入る門ですが、
現在は墓域には立ち入りができません。
柵外から徳川歴代将軍様に参拝。
案内を書き出すと、
以下になります。
「四代将軍家綱は、
慶安四年(1651)四月に
父・家光の死に伴って、
わずか十才で将軍の座につき、
延宝八年(1680)五月八日に
三十九才で没した。法名を厳有院という。
病気がちであった家綱時代の政務は、
主として重臣の手に任されていたが、
とくに後半の政治を担当した
大老・酒井忠清が有名である。
時代は家綱の襲職直後に起った
由比正雪の乱の解決を機に、
ようやく安定期に入った。
家綱の霊廟の一部は雑新後に解体されたり、
第二次世界大戦で焼失したが、
この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、
その廟所と共に、これらの災を免れた
重要な遺構である。
刺額門の形式は四脚門、切妻造、
前後軒唐破風付、銅瓦葺。
なお、このうち水盤合は延宝八年に
家綱のために造立されたものであるが、
この勅額門は昭和三十二年の
改修時に発見された黒書銘によって、
もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを
転用したものと考えられる。」
へ〜元々は、
家光さんの霊廟にあったんだ〜!
道端の燈籠といい、林光院といい、
なんか家光さんにご縁がありますね!
改めて柵の隙間から撮影。
ここからは、
寛永寺根本中堂を目指します。