廣瀬淡窓の墓(大分県日田市)
事前準備しない醍醐味
旅に出る前、しているようで、
意外としていないのが事前準備(笑)
目につく名所以外はさらっと見てしまい、
実際に行った時に気づく場所もあれば、
ブログを書いていて
「あ~そんなのあったのか・・・残念!」
「でもいいっか~」
となってみたり。
探求心ありそうで、無いのが僕の性格。
今回訪問した、
廣瀬淡窓(ひろせたんそう)のお墓も
そんな淡白さ故の
感動の出会いでした。
まさにこれこそ旅の醍醐味かも(笑)
咸宜園(かんぎえん)へ
豆田町に入り、
日田が生んだ日本を代表する学者、
「廣瀬淡窓」の私塾である
咸宜園を徒歩で目指します。
永山布政所跡近くの
月隈神社参道(永山城登城路)脇の
お城風公民館と石灯籠。
この花月川を渡ると豆田町。
そして、
町中を歩くこと7分ほどで、
こんな案内板を発見。
へ~知らなかった~。
廣瀬淡窓のお墓があるのか~!
しかもここ、
住所まで「淡窓」なんですよ!
200mほどで
お墓に行けると知った僕たちは、
咸宜園に行く前に
こちらに寄ってみようと順路を変更。
少し行くとありました。
長生園。
何だか老人ホームの名前みたいですね。
でもここは長生きする場所ではなく、
長生きした人がいらっしゃる場所です。
敷地に入ると、
「淡窓先生墓所」の
石碑が迎えてくれます。
参道。
案内板。
廣瀬淡窓が起こした私塾、咸宜園を
4代に渡って継いだ塾頭たちの墓も
並んで建っています。
お墓へ。
正面には「文玄廣瀬先生之墓」
側面には、
「安政三年歳次丙辰
十一月朔午時卒」
と刻まれています。
安政三年は1856年なので、
170年近くも前のお墓ですね。
亡くなった日付だけでなく、
時刻までが記されているのには
少し驚きました。
そして、一番の注目は「卒」という文字。
「没」とかではなく「卒」なので、
人生を無事卒業したという
意味も含まれているのかな?
なんだか良い言葉です。
こうして後継者、兄弟たちに囲まれた
老後・・没後、
いいえ、「卒後」を過ごせるのは、
淡窓先生の人柄も
あっての事なんでしょうね。
何やら大事にされている
お墓の左側の建物内の石碑。
「文玄先生之碑」
先程の案内によると
「淡窓の没した翌年に建てられた墓碑で、
その碑文は淡窓が生前自ら作った文を、
没後、旭荘(弟子)が謹書して碑文に
刻ませたものである。
この墓碑銘の末尾には、
「我が志を知らんと欲すれば
我が遺書を見よ」
と記してある。」
このように書かれています。
碑文の一節、
「弟子前後三千餘人」は凄い数です。
これは亡くなった直後の建立ですから
この数字は誇張されたものでは
ないでしょう。
それにしても偉い方がいたものです、
日田には!
graveとtombの違い
僕は英語が喋れないのですが、
このブログの3枚めの写真で、
「廣瀬淡窓の墓」の英語表示には
「The Grave of Tanso Hirose」
このように書かれているのが
ちょっと気になりました。
ブログを書く時に「お墓」の
翻訳で出て来る単語は
「tomb」がほとんどなので、
何が違うのかとeigopediaで調べたら、
「Grave」は、墓所を指す一方、
「tomb」は、その上に建てられる
建造物を指します。
そのこともあり、「tomb」ですと、
偉大なお墓というイメージを持たせます。」
このように書かれています・・・・
分かったような、分からないような(汗)
やっぱり英語は難しいな(笑)