十七烈士の墓(京都府大山崎町)
300年の時を3分で移動
戦国時代の1582年、
明智光秀との戦いに於いて、
豊臣秀吉が馬印を振り、
兵士を鼓舞したと言われる
天王山の旗立松展望台から
1864年、禁門の変で敗走し、
真木和泉守以下17名が、爆死した
「十七烈士の墓」までは、
歩いて約3分。
約300年の時を
わずか3分で移動という早業(笑)
そんな事が出来るほど
「天王山」という山は、
歴史が詰まった魅力ある山なのです。
十七烈士の墓へ
登山道を登って行くと、
このような分かれ道が出てきます。
十七烈士の墓をパスするなら右の道、
お参りするならば左の石段を上がる
「天王山山頂近道」ルート。
寄り道するのに近道だなんて、
何だかラッキーかも(笑)
石段を上がるとすぐに
墓地が見えて来ました。
お墓の前にある案内板。
割愛し要約すると、
「元久留米藩士で、
水天宮宮司の真木和泉守保臣は、
幕府軍と戦った
禁門の変の敗残兵をまとめて、
大山崎に引き上げ、
兵を国許に帰国させた。
真木は最後まで付き従った十七名とともに
天王山で爆死を遂げた」
禁門の変と言えば、
長州藩VS幕府かと思ったら、
認識が違っていました・・・
実はこの墓地に眠る十七名に
長州藩の出身者はいません。
(福岡県)久留米の真木和泉守も
死を賭して、尊王攘夷を貫き
一生を終えているのですね。
その真木和泉守をご祭神とするのが、
自らが宮司を務めていた、
久留米市、水天宮の境内に鎮座する
真木神社で、その写真はこちらです。
実は、僕たち、
十七烈士の墓にお参りした数日後、
真木和泉守の足跡を辿る旅として、
水天宮に参拝していました。
水天宮に建てられた真木和泉守の銅像。
力士と間違えられるほどの
大男だったそうですよ。
それはさておき、
話はまた、天王山に戻ります。
手水舎。
お墓の正面。
元のお墓は、
登山道の途中、
麓近くの宝積寺(宝寺)境内に
ありましたが、明治元年、
ここに移設されています。
幕府に抵抗し、
尊王という思想を貫いた人々を
手厚く祀るという明治政府の
政治的思想も反映されたのではと
考えられますね。(推測です)
天王山十七士没後百五十年祭記念碑。
「烈士墓表」
十七名全員の出身藩と名前が
刻まれています。
墓表の裏側。
真木和泉守保臣之墓。
合掌・・。
丁度その時、厚い雲の隙間から
太陽の光が・・・
真木和泉守、喜んでくれたのかな(笑)