鳥海柵(岩手県金ケ崎町)鳥海区域

予期せぬもの
現地に足を運ぶと
何かしら予期せぬ発見があるものです。
これが旅の醍醐味の一つであり、
旅が止められない理由でもあるのですが、
今回もまたまた
発見してしまいました・・・
それは、
地図やパンフには載っていない、
「安倍一族の墓」です。
まさか鳥海柵で、
墓参りが出来るとは驚きですが、
今思えば、
高野山奥之院での墓参りに
5時間も費やした妻だからこそ
お墓の主様たちも
「僕たちも参ってよ〜」って
呼んでくださったのかな
なんて思っています(笑)
鳥海区域へ
鳥海柵は北側から、
縦街道南区域、原添下区域、
鳥海区域、二ノ宮後区域の
四つの曲輪に分かれ、
それぞれの曲輪は沢(堀切)により独立し、
防御能力も高そうな柵(城)です。
原添下区域と鳥海区域は、
「大堀切」によって遮断され、
直接の行き来は出来ません。
ということで、
原添下区域から
一旦出入口へと戻ります。
ここから鳥海区域へ向けスタート。
テクテク・・
東北自動車道の手前を左に。
ここからは東北自動車道沿いの
側道を歩きます。
水沢インターまで2Km地点を徒歩で通過。
左には「大堀切」の底への道、
右が目指す鳥海区域です。
大堀切を俯瞰。
こんなに巨大なものを
一千年前に掘ったとすれば、
安倍一族の力、計り知れませんね!
案内板、
金色の梅の花、輝いていますよ!
安倍宗任と言えば、
「梅の花」ですからね(笑)
案内には、
「奥羽の山々から流れてくる
胆沢川を南に臨むこの地、
金ケ崎西根鳥海地内に
「鳥海柵」があります。
古代東北で力を持った
安倍氏の十二の柵(城)の中で、
唯一の明らかな柵跡です。
柵は南北約500m、
東西約300mの規模で
東西にのびる数本の堀によって
区画されています。」
このように記され、
続いて、
宗任が都人を驚かせた梅の花の逸話、
むすびには
「宗任のむすめは平泉の
奥州藤原氏二代基衡に嫁ぎ、
三代秀衡の母となり、
観自在王院を造りました」とあります。
こちらが令和6年2月に訪問した時の
基衡が創建した毛越寺のお隣にある
観自在王院の写真です。
夫婦揃ってお隣同士に
お寺を建立するなんて、
かなりの仲良しだったのかな?(笑)
大堀切に沿って奥へ。
河岸段丘上からの視界も良好で、
これならば敵を見張るのに
持ってこいでしょう!
鳥海柵跡の標柱とその向こうの山々。
右側の山は「豊田館」という、
藤原清衡が平泉に移る前に住んでいた
館が建っていた場所だと記されています。
清衡さんのお父様、経清さんは、
前九年合戦で安倍氏と共に戦い、
最後を共にしていますが、
清衡さんは嫡男だったのに
運よく処刑されず、
その後の
奥州藤原氏繁栄の祖となっています。
運命とは紙一重ですね・・・
巨大な標柱と妻、
記念のツーショット(笑)
安倍一族の墓
冒頭に書いた
「出会」があったのがここです。
蓮池の向こうに見える茂み・・
案内板があるので
行ってみることに・・
池には蓮の花が一輪・・・
心が清らかになるというか、
仏の世界へと導かれるような・・
これがお墓への
プロローグだったのでしょうか・・・
案内。
「鳥海咲く 古の武士 愛でる蓮」
「この地には安倍一族に関係する
高貴な人たちが眠っている
いつの日にか多くの人が訪れ
手を合わせ古の人々を偲ぶ
公園になることを願っている
鳥海柵公園 隣の山地主」
「木が倒れる恐れがあるため
しばらくの間立入禁止とする」
これはたまらんですよ!
僕も妻も感動のあまりしばし絶句・・・
地主さんの安倍一族への愛情に
ただただ頭を垂れるばかり・・
そしてまたまた感動したのが
こちらの写真です。
お〜僕たちが以前参拝した
福岡県大島の安倍宗任さんのお墓ですよ!
福岡に住む方が、
送ってくださったようです。
まさか岩手県で、
このお墓を見られるとは、
もう感無量です・・・
木々の奥に墓石が見えます・・
遥拝ながらお参りを完了。
安倍一族の方々、
安らかにお眠りください・・・
大堀切
最後に大堀切へ。
東北自動車道に沿って歩き、
先を逆V字に折れます。
結構深いですね。
幅も広くて、
これは凄いものに出会えましたよ!
同じ場所を俯瞰するとこんな感じです。
妻を入れて高さを確認。
7〜8mはあるでようか?
ここまでで、
鳥海柵の散策は完了し、
次はこの旅最後の目的地、
宮城県の多賀城へと向かいます。