2021/09/01

富岡城(熊本県苓北町)前編

 

富岡城の歴史

城内の案内を超訳すると

「関ヶ原の戦い後、天草の領主となった

唐津藩主、寺沢広高によって

慶長七年(1602)に築かれた」

「寺沢堅高の時代、寛永十四年

(1637)に

天草・島原の乱が勃発、

一揆勢に攻撃されるも撃退」

「乱の終結後、

築城の名手といわれた

山崎家治の領地となり

城の修復・拡張が行われ

今に残る「城絵図」の姿となる」

「その後破却され天領となるも

三の丸に代官所が置かれ、

明治維新を迎える」

このようになります。

山崎家治さん、

富岡城を作った後すぐに、

讃岐国(香川)丸亀藩へ転封となり、

廃城になっていた丸亀城

近代城郭へと作り直していて、

幾重にも高石垣を積んだ

壮麗で見た目にも美しい縄張は、

その後入封した京極氏の

天守造営・改築はあるものの

今尚その姿を残しています。

麓から見た富岡城の櫓風建物群。

二の丸石垣

駐車場は二の丸直下にあるので、

訪問するのは簡単です(笑)

シンプルでめっちゃわかり易い案内。

二の丸石垣の案内。

修復前の状況説明が

かなり詳しく書かれています。

石垣向かって右側。

後から二の丸に登って撮った、

二の丸の石垣。

左側の石垣。

西隅櫓も見えています。

出丸

次に出丸へ。

出丸も石垣で囲まれています。

出丸全景。

振り返って二の丸方面を撮影。

ここから二の丸へ。

二の丸

本丸のすぐ下の二の丸は、

かなりの高台に位置しています。

本丸搭乗口から写した二の丸全景。

手前の大きな櫓風建物は、

時間が無くて入れなかった

苓北町歴史資料館です。

全景では右端に写っていた東隅櫓。

ここをすぎると、

四体の銅像があります。

日本の恩人、天草の恩人。

まずは、「日本の恩人」へ。

左は勝海舟、右は頼山陽。

勝海舟について案内を超訳すると

「西郷隆盛との会見で

江戸城の無血開城を果たす」

「富岡に二度来航し、

宿泊した富岡の鎮道寺の柱には

海舟の落書(らくしょ)が残っている」

「当時は寺のものが

落書を洗い落とそうとした」

落書きも有名人になれば

価値は高まるという事例ですね。

消えなくてヨカッタ(笑)

頼山陽については、

「著作、「日本外史」は、

幕末の尊皇攘夷に大きな影響を与える」

「富岡に来た時吟じたのが「泊天草洋」で、

この名吟で、その名を

知らしめることになった」

こんな感じです。

頼山陽といえば、

Wikipediaで見た日本外史の中の一節、

「公(神君家康)の天下を取る、

大坂に在らずして関ヶ原にあり、

関ヶ原に在らずして、小牧にあり」と、

「小牧・長久手の戦い」こそが

徳川家康を天下人へ押し上げた

原動力になったことを述べている」

これを思い出します。

次に「天草の恩人」

「天草の恩人」

左は鈴木重成、右は鈴木正三。

鈴木重成は、

「天草・島原の乱後、

天領となった天草の初代代官」

「寺社を復興し民衆教化を図り、

荒地を開拓し住民を受け入れる」

多くの家族が乱の時死に絶えていたから

色んなところから人を呼んだのでしょう。

「4万二千石」という

実態に合わない石高の

半減を幕府に上申したが

認められず、江戸にて切腹。

その後、二万一千石に半減された」

このように復興に尽くした方。

鈴木正三は鈴木重成の兄で、

弟に家督を譲り、

その後弟のサポートを全面的に行ない、

天草の復興に尽力した人。

恩人に敬意を表し、

ツーショットの背景に(笑)

砂州

曲輪から見える絶景も

富岡城の魅力の一つです。

その中のひとつが砂州。

長い間の海流でできた

砂州がのびる巴湾。

案内。

少し高いところから撮影。

本丸へ行く途中、

少し高い場所の曲輪から動画を撮影。

富岡の城下まで見渡せる絶景です。

(続く)

 

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