筑波海軍航空隊記念館・史跡ガイドツアー/中編
「雪風 YUKIKAZE」
令和7年(2025)年8月15日に
封切られた映画、「雪風 YUKIKAZE」。
僕たちも映画館で観ました。
雪風艦長役、竹野内豊の台詞
「普通がいいな」には涙腺崩壊・・・
ごく当たり前の日常は、
先人達の努力と命が積み重なって成せたもの
「普通」とは奇跡なのですから・・
そして、
主題歌、Uruの「手紙」が流れ、
波の音に変わるエンディングロールでは、
最後まで誰も席を立たなかったのを
思い出します・・・
観客みんなが、
それぞれの思いに向き合い、
また、浸っていたのでしょう・・
そんな中、妻が静かに指差したのが、
エンディングロール中に表示された
「筑波海軍航空隊記念館」の文字です。
そして映画の後、
「沖縄特攻の前の会議室は、
筑波空の指令室と思ってた!」
このように言っていました。
そして、映画から4ヶ月後、
史跡ガイドツアーの途中、
筑波空の旧司令部庁舎の壁に
貼ってあったのがこちらです。

やっぱりそうでした!
エンディングロールを待つまでもなく、
妻にはわかっていた筑波空でのロケ。
さすがですね!

駆逐艦「雪風」は、
数々の激戦に参加しながらも
全ての海戦で生き残り、
戦後は復員輸送船として活躍、
その後は戦時賠償艦として、
中華民国(台湾)へ。
戦前から戦後の日本の歩みと共に
生きながらえた彼女は、
1970年に解体され、
そのドラマチックな生涯は、
終わりました。

雪風のポスターと共に、
貼ってあった戦前の「職工募集」。
映画のどこかで、
使われていたのかな?
当時のアスファルト
旧司令庁舎を散策後、
史跡ガイドツアー御一行様は、
建物から出て、
周囲の散策へと向かいます。
最初の見所は・・・

アスファルト!
ガイドさんのお話だと
ここは戦時中のまま
残っているそうです。
当時の桜並木
そして次は桜並木へ。
以下、各所の案内または、
パンフから説明を抜粋します。

「当時の桜並木」

「当時植えられた山桜や
ソメイヨシノの桜並木は、
隊門から真っすぐに道路沿いに
植えられた庁舎方面と、
「筑波神社」跡を右手に
駐車場を進む滑走路方面へと二又に分岐し、
現在でも春になると
美しい花を咲かせます。」

こちらは正門前の桜並木です。
昭和20年の春、
出撃前の特攻隊員達は、
ここで満開の桜を見て、
散り行く自分と残される家族へ
どんな思いを馳せたのか・・
あまりにも悲しく、辛く、
想像すらつきません・・・
「散る桜 残る桜も 散る桜」
この句が頭をよぎります・・

こちらは8年ほど前に行った
松江護国神社の御朱印で、
この時知った句なのですが、
今これを見ると、
参拝日の5月14日は、
筑波海軍航空隊の富安俊助中尉が、
空母エンタープライズに突入し、
散華された日(命日)で、
改めて僕たちと筑波空のご縁、
感じてしまいます・・・
神風舎跡
次は神風舎跡へ。

「神風舎跡」

「特攻が決まった隊員が
寝泊まりしていました。
筑波隊の若者たちの日記などは
「神風舎」の思い出が
たくさん綴られています。」
神社跡
次に筑波神社跡へ。

御一行様&振り向いてポーズを取る妻。

「神社跡」
「厳しい訓練の合間や出撃前には
多くの隊員がこの神社に
お参りしました。
隊員にとって心強い存在だった
ことでしょう。」

社殿はないけど参拝・・・

当時の筑波神社のパネル(常設展)。
小さな祠でもいいから
復活して欲しいものです・・・
慰霊碑
次に慰霊碑へ。

「筑波海軍航空隊
ここにありき」
「一九三四年六月開隊
練習機による操縦教育開始
四四年三月零戦による
戦闘機搭乗員養成に任務変更
四五年五月紫電戦闘機の実戦部隊となる
八月終戦
君は信じられるだろうか
ここを巣立った若人達が
広域各地に勇戦敢闘しその殆どが
南冥の空に散ったことを
また四四年十月以降
フィリピン・沖縄の作戦に
多数の者が神風特別攻撃隊員として
一命を捧げたことを
この地で編成し沖縄戦に
出撃散華した筑波隊だけでも
五十五柱を超える
ここに万感の哀惜をこめて
その鎮魂を祈り且つは
恒久の平和を念じてこの碑を建てる
一九九九年六月
筑波海軍航空隊関係者有志
用地は橋本二朗氏提供」

「戦没者の慰霊を目的に、
元筑波海軍航空隊隊員と遺族が中心となり
「筑波空友の会」が発足しました。
1999(平成11)年6月3日、
碑が建てられ、慰霊祭が開催されました。
「筑波海軍航空ここにありき」と
刻まれた碑は当初は、
筑波空の滑走路脇に建てられましたが、
2017(平成29)年に
元隊員の悲願が叶い、
現在の正門前に移築されました。」
やはり正門前というのは、
桜並木もあり、
隊員にとって特別な場所なのでしょう。
悲願が叶い、よかったですね・・
正門(隊門)
慰霊碑近くの正門へ。

両脇の石積みの門柱は、
当時のものが残っています。

門柱の上側一部使用されているのは、
もしかすると
栃木県の大谷石かも知れません・・
(あくまでも推測)

「1938(昭和13)年、
筑波海軍航空隊の表門(隊門)として
建設されました。
宍戸町など地元の有志が物資搬入の為に
整備した「海軍道路」を正面に向かえます。
隊門からコンクリート製の塀が
V字に広がり、
海軍道路から見た隊門右側に
「表門番兵塔」がありました。
門内すぐ右手には
「衛兵詰所及面会所」があり、
特攻が決まった隊員の家族が
この面会所で最後の挨拶を交わしたお話、
また、出撃に間に合わず
隊員に会えなかった家族に、
同期の特攻出撃を伝えた
元隊員の話などが伝わります。」
特攻隊員と家族の面会・・
面会出来なかった家族・・・
心が潰れるような苦しく
重いお話です・・・
当時のコンクリート塀
正門から伸びているのが、
当時のコンクリート塀です。

土塁の上にさらに塀があり、
かなり厳重な守りのようです。

「当時から基地の周りを囲んでいた
コンクリートの塀は、
今でも頑丈なまま残っています。」
全国的にも
塀が残っているのは
稀な例だそうです。
供養塔
次に供養塔へ。

供養塔。

「筑波海軍航空隊の訓練は、
「鬼の筑波」と称された程
厳しいものでした。
多くの著名なパイロットを輩出した一方、
飛行訓練中の事故等により殉職される
隊員も少なくありませんでした。
この供養塔は、隊独立のさい、
当時の司令古瀬貴季氏の揮毫により、
亡くなられた隊員の供養の為、
建てられました。」
訓練中の殉職というのは、
あまり表に出ないものですが、
こうして供養塔の存在があるお陰で、
殉職者の存在にも
目を向けることができました。

合掌・・。
水素瓦斯(ガス)格納庫跡
次に供養塔近くの水素瓦斯格納庫跡へ。

水素瓦斯格納庫跡。
基礎部分のみが残っています。

「当時の「病舎」裏の供養塔の脇に、
水素ガスの貯蔵施設がありました。
タンクはありませんが
その基礎部分だけが残されています。
コンクリートで出来た基礎の側面には、
電気系統コントロールの為のパネルが
設置されていた跡が確認出来ます。」
地下通路出入口(通気口)
ここは戦後、病院となっていたので、
病院と海軍時代の遺構が、
ミックスされた部分もあります。

この通路・屋根は病院時代のもので、
ここを通って地下通路関連の
見学へと向かいます。

地下通路の通気口。
これはいくつも残されています。

地下通路入口。
コンクリの分厚い蓋を開けると・・
(妻は開けるフリのみです・・笑)

狭い通路があります。

ここから出入りするなんて
結構大変そうですが、
秘匿するという意味では、
当たり前なのかも知れません。
飛虎将軍展
史跡ガイドツアーご一行様の移動途中、
旧司令庁舎で見つけたのが、
「神様になった海軍パイロット
ー杉浦茂峰ー
飛虎将軍展」です。

この小さな入口に気付いた僕、
グッジョブ!(笑)

「笠間台湾交流事務所開設記念」。
笠間市のサイトによると
事務所開設は2018年で、
前回の東京オリンピックの時、
台湾ゴルフチームの
事前キャンプ地となったようです。

僕は台湾で神として祀られた
この方の概略を知っていたので、
是非観たいと思いつつも
ツアーの移動途中に
ゆっくり観る訳には行かず、
後からじっくりと読むために
超高速で全パネルを撮影開始!(笑)
以下、案内を要約・抜粋します。

「笠間市は、県内自治体として
はじめて台湾(台北市)に
「笠間台湾交流事務所」を設置しています。
令和5年度に事務所開設5周年を
迎えたことを記念し、
台湾と笠間に縁がある人物
(杉浦茂峰=飛虎将軍)をテーマとして
本展示を実施いたします。
杉浦茂峰飛曹長の生涯や廟文化の紹介、
廟建築によって生まれた戦後の茨城県と
台南との交流の歴史を紹介します。」
■飛虎将軍廟とは
「戦後、台湾南部の古都・台南市の郊外に、
地元の有志により
鎮安堂飛虎(ひこ)将軍廟が設置され、
杉浦茂峰(すぎうら しげみね)飛曹長が
祀られています。
飛虎とは戦闘機を意味し、
将軍とは神格化された勇士を
意味しています。
廟に伝わる口伝では、
海尾寮集落において、
白い帽子と服を着た日本の若い海軍士官が
枕元に立っている夢を見たという者が
数名いるといいます。
その後、1971(昭和46)年には
集落の有志が集まり、
市街地を避けて撃墜した集落の恩人として
杉浦茂峰氏を祀るための祠を
建設したと伝わっています。
1993(平成5)年には、
台南市海尾朝皇宮管理委員会において
廟に建て直しされ、
現在も地元住民により手厚く祀られ、
廟は多くの旅行者が訪れる
スポットとなっています。
廟の存在により、2016(平成28)年の
水戸市へのご神体の里帰り等、
様々な交流が現在も続いています。」
現代の自衛隊でも、
飛行中に機体が故障で発火するも
すぐには脱出せず、
市街地を外れるまで操縦して、
地上近くで脱出したものの、
時すでに遅しで、
お二人が殉職される事故が
ありましたが、
我が身を顧みずに他人を思う
日本人の献身的な美意識というのか、
他人を巻き添えにしないという
強い気持ち、
言葉になりません・・・

■飛曹長 杉浦茂峰の軍歴
「大正12年、茨城県生まれ。
筑波海軍航空隊、
土浦海軍航空隊(予科練)、
鹿島海軍航空隊(初歩訓練)などを経て、
昭和19年(台湾)の
高雄海軍航空隊にて任務中、
台南上空敵機邀撃戦闘中戦死。」

「神様になった海軍パイロット
ー杉浦重峰ー物語」
日本語と台湾語で記されています。
米軍に撃墜されるもすぐに脱出せず、
集落を避けた場所まで飛行機を操縦し、
墜落、戦死したことが、
主な内容ですが、
細かい文字は確認できません。

「飛虎廟が生んだ交流」
■ お神輿奉納と飛虎将軍跡帰りの実現
日本から神輿を奉納したことや、
御神体が茨城に里帰りした時のことが
記されていますが、
やはりクライマックスは、
里帰りでしょう。
「2016年9月21日、
飛虎将軍は水戸へ里帰りを果たすのです。
翌9月22日、
茂峰が英霊として合祀されている
茨城縣護國神社で盛大な慰霊祭が斎行され、
午後には飛虎将軍のご神像をのせた
お神輿渡御が行われました。
翌日は茂峰の出身校である
水戸市立五軒小学校と
三の丸小学校を訪問し、児童たちによる
吹奏楽など飛虎将軍は学校あげての
大歓迎を受けました。
この里帰りには数えきれないほどの
エピソードがあります。
その中のいくつかを紹介しましょう。
ご神像を台湾から日本へ運ぶ際、
ほとんどの航空会社は、
神様を「荷物扱い」とする中、
ある航空会社で大人一人分の航空運賃で
ご神像の席を確保しました。
また、水戸での里帰りをすませた
飛虎将軍一行が
列車で東京へ向かっていた時の事です。
土浦駅を出発し、
荒川沖駅を通過する直前に
列車が急停車しました。
すぐ近くには、
かつて茂峰が飛行訓練を行った
土浦海軍航空隊と霞ヶ浦海軍航空隊、
鹿島海軍航空隊があります。
停車はわずか1分半のことでしたが、
飛虎将軍廟顧問の方が、
「飛虎将軍が思い出の地に1秒でも
長く滞在できてよかったです」と
嬉しそうに語ったのも印象に残りました。
もうひとつ
「飛虎将軍に富士山を見せてあげたい」
という思いによって、
駿河湾をフェリーで渡った時のことです。
青空の下、富士山の頂には白い雲が
たなびいていました。
ちょうど船が富士山の
正面を過ぎたあたりでしょうか、
突然、富士山の向こうから自衛隊機が2機、
雲を抜けて飛んできたのです。
富士山を眼下に
大空をゆうゆうと飛翔した2機は、
細長い雲だけ残して
瞬く間に見えなくなりました。
偶然と言えば偶然かもしれませんが、
同行していた筆者には、
まるで飛虎将軍を歓迎しているように
見えたものです。」
これを読んで、
ちょっと驚きました・・
茨城縣護國神社で、
飛虎将軍の慰霊祭が斎行された
9月22日は妻の誕生日なのです!
やはり妻は、
ご英霊と繋がっているのでしょう・・
■ 台湾の人たちに感謝の心を伝えたい
「飛虎将軍廟の近くに
「安慶国民小学」という
生徒数1,000人ほどの小学校があります。
この小学校では、
飛虎将軍の物語をいろいろな形で
生徒たちに教えています。
学芸会で児童が飛虎将軍の人生を演じたり、
英語での朗読発表会を催したり、
ふだんの授業ではゲーム形式など、
飛虎将軍のことはもちろん、
大戦のこと、海尾のこと、
正義や思いやりなど
歴史や郷土史や道徳を学べるように
工夫しています。
安南区の名士は、
安南区はかつて台湾を支配していた
オランダ軍を打ち払った英雄、
鄭成功が台湾に最初に上陸した土地、
古い歴史を持ち、
文化の中心地でもありました。
(※鄭成功の父は平戸藩松浦家に仕え、
○自身は平戸生まれで母は日本人)
その誇りを忘れず、地域の守り神である
飛虎将軍の心に触れ、
子供たちに他人を思いやる心を
持って欲しいと言います。
こうしたことからもわかるように、
もはや茂峰は日本人という枠を超え、
この地に深く溶け込んだ
存在になっています。
「台湾の人々は物故者をいたわる気持ち、
中でも戦没者を憐れむ気持ちが強い。
たとえ他人であっても
無念の死を遂げた者をいたわる気持ちは、
日本人が考える以上に強いと言っていい」
台湾在住作家の片倉佳史の
この言葉で思い出すのは、
東日本大震災の折りの
台湾からの莫大な義援金です。
その金額は最新の統計で
253億円と言われていますが、
これは公に発表された目に見える数字で、
個人的に寄付されたお金などを合わせると
天文学的金額になると言われています。
考えてみてください。
台湾は九州よりも小さな島国なのです。
けれど子供は
アイスキャンデーを買うお金を、
老人は月々のわずかな生活費を、
日本統治下に生まれた
エバーグリーングループ総裁の
故・張榮發氏は震災直後に
個人名義で10億円を、
多くの台湾人たちが
それぞれの精いっぱいの気持ちで
寄付してくれたのです。
台北駐日経済文化代表処には、
台湾各地から送られた
復興応援のメッセージが
四方の壁いっぱいに貼られています。
手紙もたくさん届いており、
中には老人ホームから、
日本語で書かれた
心温まる手紙もありました。
けれど震災に遭ったのが
どの国であっても、
台湾の人たちは
「困っている人がいれば
助けてあげたい」という
純粋な気持ちで
義援金やメッセージを
送ったに違いありません。
最後に、飛虎将軍廟を
大切に守り続けている
地元の人たちの篤い信仰心と、
他者を思いやる台湾の人たちの
素朴な優しさに感謝して
筆を置きたいと思います。」

台湾観光案内。
これをみて驚くのは、
日本軍人の立派な廟が、
台湾各地に建てられている事です!
飛虎将軍と、
左下の三十八号哨戒艇の事は
知っていましたが、
これほどまでに台湾の方が、
日本人を手厚く弔って下さっているとは、
全く認識していませんでした。
改めて、台湾の人々への感謝と、
尊敬の念を抱かずにはいられません・・
(続く)