小諸城(長野県小諸市)前編

 

仙石秀久

武田信玄の重臣、

山本勘助の縄張という説もある小諸城。

その後、近代城郭として改修したのは、

天正十八年(1590)

小諸藩主となった豊臣秀吉の家臣、

仙石秀久という武将です。

この仙石秀久さん、この三年程前、

豊後国(大分)戸次川の戦いで、

島津軍相手に大失態をやらかした上、

一人小倉城に逃げ帰ってしまい、

秀吉は激怒し改易となり

高野山に追放されていますが、

その後、再び大名に復活し、

子孫は明治維新まで

大名として存続しています。

その復活劇を演じた小田原征伐時の

肖像画が仙石秀久が建てた

大手門横にありました。

Wikipediaによると

「美濃国で20名の旧臣らを集め、

浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じた。

陣借りに際しては秀吉の盟友となっていた

徳川家康からの取り成しを受けている。

秀久は糟尾の兜と白練りに

日の丸を付けた陣羽織を着て、

紺地に無の字を白く出した

馬印を真先に押し立て、

手勢を率いて諸軍の先に進んだ、

といわれている。

さらに敵兵を引き付ける為に

鈴を陣羽織一面に縫いつけた、

とりたてて際立つ格好をして合戦に参加し、

「鈴鳴り武者」の異名をとったという

逸話も残されている。」

このように書かれています。

「無」の文字は己を既に

この世に無いものとした心の現れでしょう。

まさに「大死一番」

(自己の一切を投げ捨て、

死んだつもりで奮起すること)

山中城攻略と、

その後の小田原城の戦いでの

武功が秀吉に認められての

見事な大名復帰でした。

(戸次川の戦いで亡くなったり

見捨てられた人からすれば

何とも複雑な心境かも・・・)

小諸城・大手門

やはり小諸城の一番の見所は、

仙石秀久の時代から400年、

今尚当時の姿で残っている大手門です。

案内でわかるように

小諸城の中を鉄道が通っていますね。

大手門は向かって右、

本丸などの曲輪は左です。

福山城三原城、長篠城なども

同じような感じで

鉄道で分断されていますが、

鉄道を敷いた昔は、

お城の価値というのは、

ほぼゼロだったのでしょうか・・・。

大手門公園駐車場。

ここは2時間無料、

有り難し!

大手門公園の見取り図。

ここには、ぽつねんと(笑)

国重要文化財の

大手門のみが建っています。

城内側からの大手門。

案内を書き起こすと、

「小諸城の正門(四之門)。

慶長十七年(1612)、

藩主仙石秀久が

小諸城を築いた時代の建築。

二層入母屋造の楼門で、

石垣と門が一体化していない事や、

一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、

二階は居館形式をとっている事など

多くの特徴があります。

この門を建てる際に、

大工は江戸から呼び、

瓦は三河(現在の愛知)から

運んだとされ、

当時はまだ瓦葺きの屋根が

珍しかったため

「瓦門」とも呼ばれました」

このようになります。

訪問時間が早かったので、

櫓の中には入れませんでしたが、

二階は畳敷きだそうで、

まさに居館ですね。

城外側からの大手門。

大手門横の石垣は野面積み。

角は算木積みっぽいけど

まだ未完成形です。

まだ大手門の訪問だけなのに

かなり時間がかかっています(笑)

(続く)

 

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