上野東照宮(東京都)五重塔

 

宮司さんの英断

江戸時代初期から、

上野東照宮には五重塔がありました。

明治に入り、神仏分離で、

これを廃棄しなければならなくなった時、

当時の宮司さんはなんとかして

この塔を残そうとし、

「これは寛永寺のもので、

処分の対象ではありません」

そう言って、

五重塔は寛永寺の所属となり

生き残ったというのです。

これはまさに、英断でしょう!

かけがえの無い財産でもある

五重塔を残す一心で、

無私なる行動をとった宮司さん、

お名前も存じ上ませんが、

もっと顕彰されるべき人かと思います。

正岡子規記念球場

清水観音堂から

上野東照宮へ行く途中に見えるのが、

正岡子規記念球場です。

のどかな公園内の道。

球場に到着。

案内を要約すると

以下になります。

「俳人、歌人、随筆家の正岡子規は、

明治10年〜23年頃にかけて

上野公園で野球を楽しんでいた。

「打者」「走者」「直球」などの訳語は

現在も使われている。

これらの功績から

平成14年に野球殿堂入りをした。」

正岡子規、

文武両道的な人だったのですね。

大鳥居

さらに進むと広場が見えてきます。

左が上野東照宮参道入口、

その右が上野動物園入口です。

神社と動物園はお隣同士なんですね(笑)

上野東照宮とぼたん苑の案内。

参道入口。

さらに奥へ。

大鳥居に到着。

右の柱には備前国(岡山県)から

運ばれて来たと刻まれています。

左の柱には、

「寛永十年癸酉四月十七日

厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」

と刻まれています。

厩橋(うまやばし)とは、

後の群馬県前橋で、

「西暦1633年、

前橋藩の酒井忠世の寄進」

という事になるのですが、

鳥居の裏側を見ると、

それだけではないのです・・・

裏側。

右の柱には

「台命加琢磨奉再建之

享保十九年甲寅十二月十七日

厩橋城主 従四位下

酒井雅楽頭源朝臣忠知」

このようにあるのです。

鳥居が普通の再建ならば、

表の「寛永」の表記は、

いったい何なのか?

疑問に思い調べてみると

驚きの事実が隠されていました!

この鳥居、最初の建立から

50年後くらいのある時期、

解体されて埋められ、

またその50年くらい後、

掘り出され、

元の場所で復活したというのです。

だから表裏二つの記述は、

矛盾しないのですね!

政治的に失脚したりすると、

その人物が過去に寄進したものを

「無かった事にする」行為は、

日本ならず多くの国でもありますが、

酒井家は失脚(それに類するもの)から

復活を遂げたので、

鳥居も元に戻すことが

出来たのでしょう。

こんなミラクルなストーリーがあるのに、

なんの説明もないなんて、

実に勿体無いですよ!

これこそまさに

復活・再生・繁栄の

有難〜いご利益を持つ、

強運と幸運の鳥居なのですから

是非、上野東照宮の目玉の一つに

して欲しいものです。

神門

鳥居から

程なくして神門があります。

全国の大名から寄進された

燈籠に守られ神門へ。

さすが東京、人が多い!

「東照宮」の神額。

内側から。

徳川っぽい仕様です(笑)

五重塔

参道をさらに奥へ進みます。

相変わらずの燈籠群を従え(笑)

五重塔が見える位置へ。

参道から見た、

お隣、上野動物園敷地に建つ五重塔。

柵の手前から撮影。

この案内に冒頭紹介した

宮司さんの英断が書かれています。

全文は以下となります。

「旧東叡山寛永寺五重塔

(旧東照宮五重塔)

寛永八年(1631年)土井利勝により

上野東照宮(寛永四年(1627年)創建)

の一部として五重塔が建立、

寄進されました。

寛永十六年(1639年)火災により焼失、

甲良宗広らにより同年建されたのが

現存する五重塔です。

以前この場所には五重塔への

参道がありました。

ですから五重塔の正面は

今ご覧になっている面です。

明治時代に神仏分離が発令され、

五重塔は仏教施設であることから

全国の神社所有の五重塔は

多くが破壊されました。

当宮の五重塔も取り壊しの

対象となりましたが、

美しい姿を何としても残したいと考えた

当時の宮司は熟慮を重ね、

五重塔を手放すこととし

塔は寛永寺の所属であると国に申し出ました。

東照宮五重塔は寛永寺五重塔と

名前を変えましたが、

その機転により取り装しは免れました。

寛永寺の所属となったものの、

寺からは距離があり管理が難しいことから

昭和三十三年(1958年)

東京都に寄付されました。

現在は動物園の数地内にございます。

塔の高さは約32m。

江戸時代の多くの五重塔が

初層から第四層までを和風、

最上層のみを唐様風とするのに対し、

この塔は全層が和風機式です。

建物内部には心柱が

塔の土台の上にしっかりと建てられ、

塔の頂上にある

青銅製の相輪まで貫いています。

心柱が釣られた懸垂式と呼ばれる建築構造が

江戸時代の五重塔に多く見られるのに対し、

この塔は土台にしっかりと建てられた

桃山時代建築の五重塔に

良く見られる構造で建てられています。

屋根は初層から第四層が本瓦葺、

最上層は瓦を使用しています。

初層上方には十二支の彫刻が、

各層の軒下の角部には

四頭ずつ龍の彫刻が配されています。

関東大磯災でも倒壊せず

戊長戦争や第二次大戦でも焼失を免れた、

江戸初期の建築様式を伝える

優れた建築の一つとして

明治四十四年(1911年)

国の重要文化財に指定されました。

以前塔の初層内部には

心柱を大日如来に見たて、

それを中心にして東寺大仏師職法眼

康猶の作と伝えられる

彌勒・薬師・釈迦・阿弥陀の

四体の仏像が安置されていました。

第二次大戦中、

五重塔は管理が行き届かず

扉は撮れた状態でした。

その内部に仏像が置かれたままに

なっているのを発見した当時の宮司は、

仏像の破損や盗難を防ぐため、

急いで東照宮境内に

四体を引き取って大切にお守りし、

戦後寛永寺にお返ししました。

現在この四体の仏像は

東京国立博物館に寄託されています。」

数々の試練を乗り越えた

「幸運の五重塔」、

素晴らしいじゃないですか!

そして、

ここで書かれている甲良宗広さんを、

Wikipediaで調べると、

江戸時代初期の大工の棟梁で、

家光さんが建て替えた

日光東照宮もこの人の仕事だと

書かれています。

凄い人の作品を凄い宮司さんが

残してくれたんですね・・・

最後に柵の間から

上野動物園の敷地に建つ

五重塔正面を撮影。

上野東照宮、見どころが多く、

なかなか手水舎にも

辿り着けません・・(笑)

(続く)

 

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