上野東照宮(東京都)唐門

 

おぼっちゃまくんしゅ

徳川三代将軍家光は、

毎日が命懸けの戦国時代を知らない

文字通り

「生まれながらにしての将軍」です。

おじいちゃんの家康から残る

莫大な財産を湯水の如く使い、

日光東照宮をはじめ、

絢爛豪華な建物を造りまくった

「おぼっちゃまくん」ならぬ、

「おぼっちゃまくんしゅ」ぶりのお陰で、

現代の観光業は大いに潤っています。

費用対効果という面で見ると、

これほど高いものはないでしょう(笑)

もちろん鎖国政策など、

教科書に載るような功績や、

正保の城絵図やフクロウの絵(笑)など、

世間一般に知られているもの、

知られざるものを含め、

使った財産を遥かに凌ぐ

幕府安泰と国家安泰の功績を

残していることも

「おぼっちゃまくんしゅ」

だったからこそなのかも知れません。

そんな「おぼっちゃま」ぶりを

的確に表現しているのが、

東照宮略記です。

僕たちはこれを読んで、

今まで以上に家光さんが

大好きになりました(笑)

その理由がこちらです。

「満足出来ず」という表現、

これを書いた人、天才ですよ(笑)

家光さんのおぼっちゃまぶりを

このワンフレーズで

完璧に表現していますから!

お父さんの秀忠が建てた

質素な日光東照宮だって、

「満足出来ず」だったから

ぜ〜んぶ壊して、

金ピカに建て替えたのですね(笑)

改めて略記全文を書き出すと

以下になります。

「祭神

徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜

元和二(1616)年二月

見舞いのため駿府城にいた

藤堂高虎天海僧正

危篤の家康公の病床に招かれ

三人一処に末長く魂鎮まるところを

造って欲しいと遺言された。

そこで高虎の屋敷地である

この上野の山に寛永四年(1627)に

本宮を造営した。

その後将軍家光はこの建物に満足出来ず

慶安四年(1651)現在の社殿を

造営替をし、江戸の家徴とした。」

素晴らしい略起に出会え、

僕たちは「大満足」です(笑)

銅灯籠

上野東照宮には各地の大名から

無数の銅灯籠と石灯籠が

奉納されています。

境内図の主役も灯籠(笑)

この境内図には、

銅灯篭、石燈籠の区別と

灯篭全ての位置と奉納者や奉納年などが

懇切丁寧に案内されているのです。

こんな境内図、

初めて見ましたよ!

参道の左側、

手水舎の手前には、

いくつかの銅灯籠が集められています。

案内を書き出すと

以下になります。

東照宮社殿唐門前と参道に、

五十基の銅燈籠が並んでいる。

燈籠は神事・法会を執行するときの

浄火を目的とするもの。

照明用具ではない。

浄火は神事・公事に使う清めた火。

燈籠は上部から、

宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で

構成されている。

火袋は、八角・六角・四角などの

形式に分かれ、

各面には火口・円窓という窓を設けている。

火袋下部の長い部分を竿といい、

ここに銘文を刺むことが多い。

これら銅燈籠は、諸国の大名が

東照大権現霊前に奉納したもの。

竿の部分には、

寄進した大名の姓名と

官職名・奉納年月日等が刻字されている。

それによると、伊勢国(現三重県)

津藩主藤堂高虎奉献の

寛永五年(1628)銘一基をはじめ、

慶安四年(1651) 正月十七日

奉献二基、

同年四月十七日奉献四十五基、

同五年孟夏ー七日奉献二基となっている。

慶安四年四月十七日は東照宮社殿落の日。

その日の本数が最も多い。

これらは、

東照宮社殿とともに一括して、

国の重要文化財に指定されている。」

ここで銅灯籠の一つに注目。

家光さんの異母弟、

会津藩主の保科正之からの奉納です。

家光さんの子、四代将軍家綱の時代、

明暦の大火で焼け落ちた

江戸城天守を建直さず倹約し

江戸の町の復興資金に充てた保科正之ですが、

金ピカの上野東照宮が出来た時、

何を思っていたのでしょう・・(笑)

灯籠の反対側の神楽殿。

こちらは明治時代初期の奉納です。

手水舎

手水舎は参道の左右に二つあって、

現役は左側です。

手水完了。

参道右側の古い手水舎。

家光さん時代の老中で、

殉死した阿部重次の奉納です。

慶安四年孟春と刻まれていますので、

多くの銅灯籠と同じく、

家光さんが建て替えた

東照宮の落慶に合わせた奉納です。

唐門

いよいよ唐門へ。

狛犬と唐門・拝殿の遠景。

唐門前の両脇には三対六基の

銅燈籠が安置されています。

「御三家灯籠」

以下案内です。

「これら唐門両側の六基の銅灯籠は

家康公36回忌である慶安四年

(1651年)四月十七日に奉納された。

尾張・紀伊・水戸の「徳川御三家」より

2ずつ納されたもので、

すべて重要文化財に指定されている。

笠の龍が舌を巻いているようなモチーフは

「蜃(しん)」という想像上の動物で、

口から気を吐き蜃気楼を作るといわれている。

火袋の天女の装飾が美しく精巧である。

灯籠の奉納者は唐門より順に

以下のように並んでいる。

・紀伊 従二位大納言 徳川頼宣

(家康の十男)

・水戸 正三位権中納言 徳川頼房

(家康の十一男)

・尾張 従三位兼右近衛権中将 徳川光義

(家康の孫、家康の九男義直の子)

御三家の中では尾張・紀伊・水戸の序列が

一般的なので、通例だと兄弟の順からも

九男が興した尾張家が一番

唐門側に来るのであるが、

季納の前年に義直が他界し、

子の光義(後の光友)が

家督を継いたばかりで

また官位もかったため、

唐門から最も遠い場所に奉納し、

このような順になったと考えられる。

調査協力 代田照彦氏」

慶安四年は奇しくも

徳川頼宣の関与が疑われた

慶安の変(由井正雪の乱)の年です。

(後に頼宣の疑いは晴れる)

灯籠奉納の時は、

事件の直前だったから一番良い場所に

安置されたのかな?(笑)

唐門向かって右側の灯籠。

唐門向かって左側の灯籠。

唐門前。

唐門の唐破風と拝殿の千鳥破風が

一体化されて見えるのは、

日光東照宮と同じです。

唐門アップ。

華やかで素晴らしい門ですね!

(続く)

 

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