地下壕第一電信室/串良基地跡
モールス信号
YouTubeなどで、
特攻機の突入信号を聞くと、
特攻隊員だった(多分)
前世の記憶を思い出すように、
心を打たれ、涙する妻・・・
恐らく一般人では想像がつかないほど
モールス信号への反応は特別です。
そんな妻から教えて貰ったのが、
特攻機からの突入電を受信していた、
海軍航空隊隊串良基地跡の
地下壕第一電信室で、
当時の姿そのままに残り、
地下に降りて見学可能という
かなり貴重な体験ができる場所です。
地下壕入口
地下壕は駐車場含め綺麗に整備され、
初訪問でも迷う事はありません。

鹿屋市指定文化財として、
大切に保存されています。

広い駐車場を独占。

基本、毎日見学可能は実にあり難し!

以下案内の主要部を書き出します。
■地下壕の概要
「この地下壕は、串良基地の関連部隊との
連絡が行われていた地下壕で、
特別攻撃隊員が突撃前に送る
最後の電信(モールス信号)を
受け取っていた場所としも知られています。
戦時中、ここでは隊員たちが
24時間3交替制のもと、
その任務にあたっていました。
当時この地下壕で
勤務していた隊員の体験談によると、
地下壕内には受信機や送信機のほか、
電話や発電機などが
配備されていたとされています。
2箇所の出入口付近には、
爆風を除けるための防御壁と
土塁がそれぞれ設けられており、
当時の空襲対策の一端を
垣間見ることができます。
特別攻撃隊員との電信に使われた
地下壕施設の中でも保存状態が良好であり、
戦争の記憶を後世に語り継ぐ
貴重な戦争遺跡となっています。」
■串良基地の概要
「串良基地は太平洋戦争末期に
教育航空隊として開隊され、
約5000名の飛行予科練習生が
航空機の整備・搭乗・通信等の
猛訓練を受けました。
昭和19年4月には実践部隊に編入され、
昭和20年3月からは
特別攻撃隊の基地として使用されました。
昭和20年8月15日に
終戦を迎えるまでに、
363名の特別攻撃隊員と210名の
一般攻撃隊員が串良基地から飛び立ち、
その若く尊い命を失いました。」

分かりやすい周辺案内も付いてます。

妻、入口へ。
爆風除けの防御壁、
めっちゃ分厚いコンクリ壁で
びっくりですね!
電信室
入るとすぐに地下への階段があります。

かなり深そうな・・・

もうすぐ底です(笑)

ここもコンクリの厚さ半端なし。

電信室内へ。

妻、感動・・・
そしてしんみり・・・

荒削りな天井を見て、
当時の人々が、
汗水垂らして作っている姿を、
何となく想像させてくれます・・

案内板を読む妻。

事前情報で知っていたものの
音声ガイダンスは故障中。
ここでモールス信号が聞きたかった妻は、
少し残念そうです・・・
この後、写真パネルを見学。

「別れの杯を交わす特攻機の搭乗員たち」
この瞬間の彼らの気持ちを思うと、
胸が締め付けられます・・・

「特攻機出撃を見送る兵士たち」
見送りもなく、
密かに飛び立った特攻機も多い中、
言葉が的確でないかとは思いますが、
ある意味、
恵まれた特攻隊員かも知れません・・・

見送る側の気持ち・・
どんなだったのでしょう・・

「串良基地から爆弾を抱いて離陸する
九十七式艦上攻撃機(特攻機)
滑走路の脇では、基地周辺から駆けつけた
女性や子どもたちが手を振って見送った。」
ここに記された
九十七式艦上攻撃機と言えば、
兵庫県、鶉野(うずらの)飛行場所属、
「白鷺隊(はくろたい)」も
使用していた機材で、
鶉野飛行場から一旦、串良基地に飛び、
そこから特攻出撃していますから
この写真は白露隊かも知れません・・

妻、特攻隊に敬礼!
通路・爆風避け
電信室に並行するように
もう一つの部屋のような
通路があります。

めっちゃ厚い通路との壁。

通路は爆風を逃す機能も
備えていたのではと思います。

いくつか上向きの穴があり
用途は通風口と明かり取りの他、
通路と同じく爆風を逃す機能も
兼ねていたのでしょう。

蜘蛛の巣の向こうに(笑)
外界が見えています。

外から見るとこのようになっていて、
先っぽだけが短い煙突のように
なっていますが、
戦時中は木々などでカモフラージュされ、
目立たなかったはずです。
屋外
妻も満足したところで(多分)、
反対の出入口へと向かいます。

この壁も分厚い・・・

枡形虎口っぽい作り(笑)

長い階段で出口へ。

反対側の出入口は土塁で
爆風避けが作られていますね!

角度を変えて撮影。

先ほどの煙突(笑)を通過。

駐車場への道、
ここは畜産牛の匂いが立ち込め
それも僕たちの思い出の
一つになっています(笑)

駐車場側の出入口。
ここから見ると、
爆風避けが完璧に残っているのが、
よく分かります。

最後はここでツーショットで〆。