宇喜多秀家公潜居地跡(垂水市)

 

岡山城で愛着が・・

関ケ原の戦いで敗者となるも

鹿児島まで逃げ延び

2年以上潜伏し、

その後、死罪を許され、

流刑地の八丈島へ。

そこで50年暮らし、

84歳の天寿を全うした宇喜多秀家

この方の人生を一言で表す言葉を

3年前に訪問した岡山城で見つけました。

「関ケ原の敗者、

寿命の勝者となる」

岡山県出身の歴史学者、

磯田道史氏監修の

このキャッチフレーズに

当時、僕も妻も感動し

宇喜多秀家さんに、

えも言われぬ愛着を感じたものです。

先は見えなくとも

人生はとにかく

あがいてみるもの・・

その「足掻き」の痕跡が

ここにあることを知り、

今回の訪問となったのです。

牛根

秀家さんの長寿の源となった

鹿児島の潜伏先は、

島津斉彬の軍船を造ったり、

海軍航空隊の水上機基地があった、

歴史の生き証人的な場所、

「牛根」にあります。

潜居後は事前に調べていたものの、

詳細はわからなかったので、

道の駅たるみずのこの案内板、

めっちゃ重宝しました。

途中の案内は完璧で、

難なく駐車場へと導いてくれます。

駐車完了。

ここは旧国鉄大隅線の鉄道敷を

サイクリング道路にしていて、

垂水市は観光に力を入れられています。

サイクリング道路のマップと案内。

この中から宇喜多さん関連を抜粋します。

居世こせ神社は、

御紋が菊の模様で高貴な人を祭った

神社であると言われており、

宇喜多秀家公が2年3カ月の

潜居の間一日も休まずに

お参りした神社です。

当地には戦国の大名で、

岡山城(烏城)を作り、

豊臣秀吉亡き後西軍の総大将として

島津義弘公などとともに、

徳川家康率いる東軍と戦った

「宇喜多秀家公」が、

義弘公を頼り2年3カ月潜居した

「潜居地跡:当地」があり、

義弘公の命により宇喜多公を匿い通した

平野家と宇喜多秀家公関係者との交流が

今も語り継がれております。

潜居地跡の近くの平野原展望所からは、

西に噴煙を上げる桜島、

東に鹿児島湾奥の姶良カルデラの

絶景が眺望できます。」

潜居跡の平野家上屋敷があった

小山の全景。

道案内は完璧。

垂水市、ありがとう!

「宇喜多秀家公と潜居跡」

以下、全文です。

「宇喜多秀家公は安土桃山時代の武将です。

父・直家が

天正9年(1581年)に亡くなり

9歳で家督を相続しました。

毛利征伐のため出陣してきた

羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、

「本能寺の変」天正10年

(1582年)の後、

天下取りに乗り出す

豊臣秀吉を積極的に助けます。

幾多の戦いで功を挙げ、

天下統一後には

備前国・美作国・播磨国西部と

備中国東半の57万4,000石の

大大名になりました。

文禄の役(第1次朝鮮出兵)での

実績も認められ権中納言、

五大老の一人に任じられています。

天正18(1590年)に

岡山城(烏城)築城を開始し、

近世的な城郭構想に基づき

城下町の建設にも着手、

商工業の人々を城下に集めて基を築き、

今の岡山県、岡山市の発展に尽力しました。

天守閣の落成は慶長2年(1597年)と

言われていますが

この城は豊臣秀吉の大阪城

毛利輝元の広島城と共に

大型近世城郭の先駆をなし、

当時としては

大変大きな建造物となりました。

慶長5年(1600年)の

関ケ原の合戦では西軍の副大将を

務めましたが敗れ、

徳川方の追求を逃れて島津家を頼り、

薩摩へ落ち延びます。

ともに戦った世に名高い

”敵中突破”の島津義弘公は

ここ牛根の地の豪族「平野家」に命じ、

秀家公は山腹の小高い所にある

平野家上屋敷に匿われることになります。

追手がかかればすぐに裏の鹿倉峠に

逃げられるようになっていたそうです。

なお海辺の下屋敷は

海路外敵の見張り所としました。

秀家公は牛根に匿われていた

2年3カ月の間、家臣や領民の今後を案じ、

またその安泰を願って

毎日約3km離れた居世神社に

参拝されていたと言われています。

島津家では秀家公の

助命を嘆願しましたが、

許されなかったため、

幕臣である本田正信等を介して

罪の軽減を願い出ました。

その結果、徳川家康は

「これは島津の面目をつぶさぬ為に赦す」

と言ったとされます。

その後、慶長11年

(1606年)秀家公は2人の子どもと共に

八丈島に流され、

八十余歳で没したと言われています。

この時代にあって身長の170cm、

眉目秀麗、登城するだけで

女性たちが騒いだと言う逸話も。

「備前宰相」と言われ、義に厚く、

頭脳明晰で領民に優しかった

宇喜多秀家公は岡山市の英雄です。」

最後の「英雄」というフレーズ、

実際に岡山城内の展示を見ると、

秀家さんの治世は短かったにも関わらず、

江戸時代藩主だった池田家と同等か

それ以上に宇喜多秀家は、

敬愛されている事が伝わります。

熊本の加藤清正と同じく、

立派な大天守を造り、

町の礎を築いた人物として、

岡山県民の誇りであり英雄なんですね!

これは面白い図ですよ!

大阪から船を使って

逃げ延びたのか・・・

島津義弘と同じルートとは、

初めて知りました。

平野家の上屋敷・下屋敷の

配置図もめっちゃ分かりやすい!

誘導路(笑)も設られていて、

ここでも垂水市の施策に感謝です。

こんな細い道までが、

完全に手入れされています!

Y字路を右へ。

(左の七人塚は後ほど訪問しています)

木々が生い茂ってきました。

これなら潜居している事

バレないかも?(笑)

整備された階段の先に

幟が見えています。

石祠など。

幟には

「戦国の貴公子・岡山城主

宇喜多秀家公潜居跡」と記され、

宇喜多さん愛が全開ですね(笑)

「岡山城の石」

お城の石でも結界が張られ、

間違いなく神石として祀られています。

秀家さんの魂も、

きっと喜んでいるはず・・・

僕も秀家さんに敬意を表して、

岡山城の写真を貼ります。

本丸側から見た天守。

川沿いの天守。

宇喜多秀家さんが、

城の守りを固めるため、

現在よりも西側を流れていた旭川を

城に沿うような流れに変えた事で、

この風景が出来上がっていますので、

まさに宇喜多秀家の遺産

とも言える風景です。

「八丈島宇喜多秀家公

お手植えの株分けソテツ」

標柱には、岡山城の石と同じ日、

令和2年10月19日の銘があります。

こちらは岡山城で撮った、

八丈島の宇喜多秀家公と豪姫の像ですが、

台座の左にソテツがありますね!

もしかすると、

この株分かもしれません。

「うたたねの夢は牛根の里に

都忘れの菊は咲けり」

(宇喜多秀家公望郷の歌)

根元に祠がある御神木に参拝。

(宇喜多さんとの関連は不明)

そして、

ここからが本格的登山です(汗)

葉っぱが滑るので要注意!

到着。

山は削られて曲輪っぽく、

ここに居館があった事が理解できます。

展望所へ。

なんか開けてきました。

「平成24年12月13日平野家霜月祭」

平野家のイベントがあったのかな?

お〜桜島が見えた〜!

早咲きのさくらも

ちょっと咲いてます。

花びらアップ。

高い場所から見る牛根地区と櫻島、

素晴らしい眺めですね!

宇喜多秀家さんもここから

同じ景色を見ていたのかも・・・

ズームすれば火口からの噴煙も

しっかり見えています。

そしてここで優れ物を発見!

いや〜びっくりした〜

ここにカメラ台があるなんて!

完璧なおもてなし、

痛み入ります(笑)

垂水市の行政の方、

本当にお世話になりました!

 

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