昇平丸モニュメント/道の駅たるみず
当たり前でない「日の丸」
昇平丸モニュメントとその隣にある
海軍航空隊櫻島(牛根)基地跡の碑、
奇しくもこの二つは、
日本における
外国からの侵略への備えの黎明期と
終末期を代表しています。
独立国を維持するために、
やむ無く砲艦を作り、
その船に日の丸を掲げた島津斉彬。
同じく日本国家の存続を賭けて、
日の丸を背負って戦った航空隊員たち。
しかし敗戦した事で、
遂に日本は米軍に占領され独立を失い、
軍隊は消滅し日本の防衛システムは、
島津斉彬公以前に戻され、
それと同時にGHQにより
日の丸の掲揚も禁止されました。
(数年後、国内のみ掲揚許可)
1945年から1952年の
サンフランシスコ講和条約発効までの
約7年間、日章旗(日の丸)の使用は、
国際的には認められず、
国際航路の商船などは国識別用の
「占領下の日本を表す旗」を
掲げていたのです。
その長い苦難の時を経て、
堂々と日の丸を掲げて出港した時の
船員さんたちの気持ちは、
どれほどのものであったでしょう・・
モニュメントと基地跡の碑、
今僕たちが日の丸を使えることが、
当たり前でない事を
改めて教えてくれている気がします。
昇平丸モニュメント
「海軍航空隊櫻島(牛根)基地跡の碑」から
「昇平丸モニュメント」へ。

といってもこのように、
5〜6mしか離れていません(笑)

モニュメント正面。

「近代造船発祥の地
国旗日の丸のふるさと」
以下全文です。
「幕末、西欧列強が
東アジアに進出してきた時代に、
島津家二十八代当主島津斉彬公は
「海から来る敵は海で防ぐべきである」
と考え、
桜島の瀬戸・有村、垂水の牛根に
造船所を設け、
洋式軍艦の建造に取り組まれました。
また嘉永六年(1853)、
ペリー艦隊が浦賀に来航し、
幕府が海防の必要性に気づくと、
幕府に大船建造の解禁と、
軍艦15艘の建造を願い出られました。
そして瀬戸で昇平丸、
有村で大元丸・承天丸、
牛根で鳳瑞丸・万年丸が建造されました。
軍艦建造は五艘で終わりましたが、
大隅半島と桜島の間の海峡のこの地は、
日本における
近代造船発祥の地となりました。
また斉彬公は、昇平丸の建造中、
大船建造の解禁を願い出られた際、
日本の船と外国の船を区別するため
白地に赤い「日の丸」を掲げるよう
幕府に提案されています。
これを受けて、翌安政元年
(1854)七月十一日、
幕府は「日の丸」を日本の総船印と定め、
安政二年(1855)春、
幕府に献上するために鹿児島を出港した
昇平丸に日本総船印としての
「日の丸」が掲げられ、
万延元年(1860)には
国旗へ昇格したのです。
大隅半島と桜島の間の海峡は、
”国旗「日の丸」の
ふるさと”でもあるのです。」

大正大噴火前までの桜島は、
今のように陸続きでなく
完全な島でした。

「昇平丸図 松平文庫蔵
(福井県立図書館保管)」
以下、全文です。
「昇平丸は斉彬公が建造させた
本格的洋式船(3本マストバーク)。
嘉永6(1853)年5月、
桜島瀬戸村造船所で建造に着手され、
安政元(1854)年12月完成し、
翌年幕府に献上されて
「昌平丸」と改名した。
全長17間(約31m)、
推定排水量370t、
砲16門を搭載していた。」
ここで大いに気になるのが、
鹿児島の船の資料が、
福井県にある事です。
幕末の福井藩の名君、松平春嶽が
集めたのかも知れませんね。

桜島とモニュメント。

船首。

大砲。

船尾。

モニュメントを背にして
桜島・牛根方面を撮影。
この景色、もうたまらんな〜!

何枚でも撮ってしまう桜島(笑)

ズームすれば火口付近もバッチリですね!
動画で桜島〜霧島山までを撮影。

ここでツーショット完了。

最後はサボテンと妻のコラボで〆。