山口御屋形(山口城)

 

県庁所在地

毛利氏の居城が、

幕末、現在の山口市に移転されず、

明治維新まで、

萩城で藩政が行われていたら、

そのまま山口の県庁所在地は、

萩市だったかも知れません。

そうであれば、

萩城の中には県庁が建ったり、

都市開発も進められ、

江戸時代の面影を残す

素敵な町並みなども

今ほど残っていたのかどうなのか?

そんな事を考えてしまいます。

歴史の瞬間というのは、

面白いものですね。

旧山口藩庁門

山口御屋形に到着後、

最初の目的地、旧山口藩庁門へ。

「西洋式城郭~山口御屋形(山口城)」

案内を書き出すと、

「長州藩は、文久二年(1862)、

藩論が破約攘夷に転換すると、

攘夷に備えて城地を内陸部に移すこととし、

新城地選定の作業に入った。

沿海の地では

直接異国艦船からの脅威にさらされ、

防御戦闘に耐えられないとの理由であった。

(中略)

その山口移鎮は、

文久三年(1863)に実行された。

一方、城地の最終選定作業は難航し、

一致した結論を得ないまま、

5月10日からの攘夷戦闘に突入した。

結果は報復を受けて惨敗であった。

海軍艦船を失った長州藩では、

防備を陸上に移し、

山口周辺に関門(関所)・砲台場

などを急造し、防備の強化をはかった。

城地が山口県庁の現在地で決着したのは

7月18日であったと推定される。

これら一連の防備構築を

中心になって推進したのが、

周布政之助や兼重真一であった。

山口御屋形(山口城)は、

その後大村益次郎らの意見も入れ、

元治元年(1864)正月の地開き、

5月の斧は始めの儀を経て、

10月6日、洋式の

稜堡式城郭として完成するが、

直後の第一次長州出兵の結果、

破却された。

再建は慶應元年

(1865)4月に始まり、

翌年5月藩主初入城、

その後第二次長州出兵(四境戦争)や

戊辰戦争をはさんで

明治のはじめに及んでいる。」

このようになります。

破却しても数ヶ月で再建開始とは、

幕府の力も相当に衰えているのが、

よく分かると同時に、

長州藩の不退転の決意も感じられます。

毛利輝元は、関ケ原の戦いの敗戦後、

山口に藩庁を置きたかったそうですが、

家康からダメ出しが出た結果、

(仕方なく)日本海側の端っこ、

萩に城を作っています。

この積年の悔しさが、

幕末の藩主、毛利敬親はじめ

家臣たちの心の中には、

きっとあったでしょう。

逆境は人を強くする・・かな?

旧山口藩庁門をエントランスから撮影。

門の背後には高嶺城も見えていて、

ここに山口御屋形を作った時に、

背後の守り(詰城)として考えてた事が

良く分かります。

旧山口藩庁門の案内を書き出すと、

「この門は、元治元年(1864)

時の藩主、毛利敬親が、

藩政の本拠地を萩から山口へ移すため

建設した山口政事堂の表門として、

築造されたものと言われています。

(中略)

門の構造は、

切妻造・本瓦葺の薬医門であり、

主材はけやきと松を用い、

木割は太く豪快で、

いかにも城門らしい風格を残しています。

(後略)」

このようになります。

正面。

立派な薬医門ですね!

斜めから。

大きな薬医門ですが、

単体ではよくわからないので、

大きさ比較の為に妻登場(笑)

やはり巨大です!

城内側、枡形から撮影。

斜めから。

枡形から見える現在の山口県庁。

山口県庁さんにご挨拶(笑)

白鳥

お城の散策で、

白鳥を全面フューチャーするのは、

珍しいことですが、

僕たちの思い出もひとコマなので、

登場していただきます(笑)

旧藩庁門から周囲の散策へ向かうと、

写真左側の堀の中にいた白鳥が、

僕たちに向かい何かを訴えかえるように

「バタバタ」しながら暴れ始めたので、

僕たちがビックリして、見ていると、

そこに、おじさまがやってきて、

籠を降ろして餌を与えたのです。

一心不乱に餌をガッツク白鳥。

そうです、

白鳥は、餌を運んできた

「いつもの時間に来る」おじさまと

僕たちを間違えたのですね!

この時はこれで白鳥とは

お別れしたのですが、

散策途中に発見したのがこちらです。

=お知らせ=

「白鳥(愛称「チャッピー」:

平成10年5月12日生まれ)は

令和3年11月14日に

亡くなりました」

・・・・

そうだったのか・・・

さっきの白鳥の仲間は、

僕たちがここを訪問する

1ヶ月前に亡くなっていたのです。

ただの食いしん坊と思っていたら

悲しい(はず?)過去も

あったのです・・・。

堀の新旧石垣

山口御屋形の案内の中に

写真付きで紹介されていたのが、

お堀の新旧の石垣です。

そこを見てみようと堀の側を歩いていると、

またもや白鳥と遭遇(笑)

石垣の前に見える白鳥と、

手前の案内。

亡くなった「チャッピー」、

そして、もう一羽は「ひびき」。

二羽の白鳥が紹介されていますので、

食いしん坊は「ひびき」ですね。

「ひびき」と石垣と噴水、

背後には高嶺城と山口県庁という

超豪華版の撮影に成功(笑)

最後はズームして、

「ひびき」と「逆さひびき」で〆。

主目的だった石垣は・・・見たような

見ていないような(笑)

東稜堡の基礎石垣

「ひびき」に遊んで貰った後は

東稜堡の基礎石垣へ。

お堀を見ながら進みます。

お~あった~!

近影。

幕末の石垣ですが、

防御というよりも、

やはり「基礎」といった感じがします。

山口県旧県庁舎・県会議事堂

城跡内には二つの

国指定重要文化財があり、

その一つが、山口県旧県庁舎で、

もう一つが、県会議事堂です。

堀の外から、旧県庁舎の頭が

少し見えていますね。

案内。

超訳すると

「大正五年の竣工の煉瓦造りで、

本館と議事堂が一体で保存されている

数少ない遺構です。

設計は、大蔵省技師

大熊喜邦、武田五一が担当。

両棟の建築様式は、

中央部を高くする中心尊重や、

階層ごとに窓の形を変えるといった

ルネッサンス式ですが、

各所に日本及び東洋建築を

塩梅して取り入れるなど、

独創的な建物になっています。」

このようになります。

エントランス。

山口県旧県庁舎全景。

横長で、正面からだと

撮影出来ないくらいの規模に

驚きます。

正面から撮影。

そして、この右隣に立つのが、

県会議事堂です。

県会議事堂。

城跡に残る大正時代の建物で、

ここまで保存状態が素晴らしいのは、

山口県の方々が誇りに思い、

大切にされているからこそでしょう。

こんな光景を見ると、

山口御屋形(山口城)は、

毛利敬親公の遺志を継ぎ、

令和の今でも、

機能し続けている気がします。

 

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